「ただいまー。」
辺りがすっかり暗くなる頃、扉を押し開けて帰宅を告げる。
「お帰り、遅かったわね。」
夕飯の支度をしていたのだろう、キッチンから顔を出した母が笑顔で出迎えてくれた。
パタパタとスリッパが軽い音を立てる。
低い位置で結わえられた自分と同じ黒い髪が、歩くのに合わせて機嫌よく揺れた。
「ごめん、連絡忘れてた。」
「いいのよ、最近楽しそうだからママも嬉しいし。
なんだか小さい頃の智之に戻ったみたい…。」
…笑顔のワケはそれだったのだろうか。小さい頃の自分。
思い当たるフシが無いわけでもないが、はぐらかすように曖昧に笑みを作る。
「そうかな…。」
「覚えてない?一日中遊んで帰ってきてたじゃない。ほら、転校したあの子と…。」
―転校したあの子―
忘れかけていた記憶が、ノイズを伴ってゆっくりと浮かび上がる。
深い、深い湖の底に沈んでいたそれが、水面に顔を出す。
…咄嗟にきつく目をつむり、頭を振った。
「あー…、カバン、置いてくるよ…。」
『あの子』の名前を思い出そうとする母の話を遮って、逃げ込むように自室へ滑り込んだ。
ゆっくりと目を開く。そろそろ見慣れてきただろうか、この薄気味悪いハザマの世界も。
ここで得た情報、知識。それらを反芻して飲み込んで、ようやく出てきたのは、
この侵略はなんてタチが悪いのだろうか。という感想だった。
きっと、誰が勝っても誰かが苦しむ。現実で知り合った人と戦う事になるかもしれない。
そしてそれは、自分がどう足掻こうともどうしようもない、どうにもならない。
どうすればいいのか。その結論は最後まで出なかった。
崩れた瓦礫の上に腰かけたまま、表情のない空を見上げる。
深として、生気を感じさせない街。同じように迷い込んだ人たちと距離をとってしまえば、
動くものは何もない。
―転校したあの子―
ハザマに来る直前の母との話題を思い出す。
あまりに静かだと、人は余計な事を考えるらしい。
幼い頃の記憶、ずっと、見ないフリをしていた思い出。
小さい頃ずっと遊んでいた友達、一番仲良くしていた友達。
なんてことはない。別れが辛くて、自分にだけ言い出せずに手紙だけ残して
いなくなってしまった。
転校なんてよくあるイベントだ。
それでも、徐々に人と関わるのが億劫になって、中学になる頃には自然と仲の良い友達を作らないようにしていた。
彼女の行動を恨んだわけじゃない。ただ幼心に受け止め切れず、感傷的になっていただけ。
親が教育熱心だったのは幸いだったかもしれない。
習い事で時間が合わないから、家が遠いから。
人と関わらない理由はいくらでも作れるし、一人遊びも得意だった。
目を瞑って、頭を振る。そうしてもう一度、目を開く。
動くもののない、生気のない世界。
何も変わらない、凪いだ水面のような世界。
高校へ入った後も大して変わらなかった。挨拶を交わして、ちょっとした雑談をする程度の関係。
学校に顔を出さないクラスメイトになんて、誰も興味を持たない。
…誰も。
穏やかな音が、凪いだ水面に波紋を作る。
…誰もいないはずだった。
ただ他人と少し壁を作って、少し距離を取ればいいだけだった。
みんなが楽しそうに集まっているのだって羨ましくない。
独りだって寂しくない。習い事だって勉強だってそつなくこなせる
……。
吐き出すように言い捨てて立ち上がった。
黒い髪が、風に攫われて揺れる。
波立つ水面のように。
「かっこ悪い。いつまで傷ついたフリしてるんだ。」
ピシャリと両手で頬を挟む。
そうして、ゆっくりと目を瞑って、大きく息を吸う。
水面に浮かび上がって、息継ぎをするように、深く深く。
久しぶりに学校に顔を出して、鍋の中を無茶苦茶にしながら楽しんだ闇鍋大会。
ルールもわからず、それでも笑いながら遊んだ麻雀。
先生まで巻き込んで、靴の中がぐずぐずになるまで戦った雪合戦。
全部、一歩踏み出したから手に入れた想い出で。
その一歩を踏み出させてくれたのは。
……。
きっと、誰が勝っても誰かが苦しむ。現実で知り合った人と戦う事になるかもしれない。
そしてそれは、自分がどう足掻こうともどうしようもない、どうにもならない。
だったらもう、難しく考えるのは止めだ。
イバラシティのために、自軍の勝利のために。
そんな事言われてもピンとこない。
ただ、自分の手の届く範囲の者を、大事なものを守る。
それぐらいなら、自分にもできる気がするんだ。
「大丈夫、”守るのは十八番”なんだ。」
自分に言い聞かせるように呟く。
風上へ足を向ける。黒い髪が流されて、開けた視界の先には金色に揺れる湖面が見えた。
いつか別れる時はまた来るけれど、きっと、以前とは違う別れ方ができるはず。
それまでは、どうかこの日常を守れますように。