海棠からイバラシティへ拠点を移してから半年以上が経ち、予期せぬ火事に見舞われもしたが、ようやく落ち着けるだけの余裕が生まれた。
『電脳都市』を自称するあの街と比べて、不便なこと、慣れないことは数多くある。あれは電脳通信に最適化されつつあるのだから街を出れば不自由するのは当然であるし、元はと言えばあんなことをやらかして逃げざるを得なくなった自分の所為なのだが、一方で何もかもを電脳に依存しなくなったことで外出する機会が増え、新たな発見や出会いも相俟って生活の充実感が増しているようにも思える。
向こうではあまり乗り気でなかった高校生としての活動も、倫理的には危ないが精神上よろしいものを間近でどれだけ堪能しても罰せられない貴重な時間なのだと理解してからは、それになるべく多く時間を割くようにすらなった。電子情報であれば幾らでも改竄出来るとはいえ、どうせ暫くはこの地に留まるのだから、高校を卒業しておいても損はしないだろう、と前向きに考えるようにもなり。
クラスメート以外にも知り合いが増え、隣町への散策に抵抗がなくなり、行きつけのお店なるものまで獲得したとあっては、まさしく満たされていると呼べる状態にあろう。
この街を選んだのは友人が近くに居たからという一点に尽きるが、結果として満足な日常を送れているので、その選択に誤りは無かったと信じたい。
わたしがあの街を離れると家族に迷惑が掛かるのではないか、といった懸念は、今のところ心配しなくても平気らしい。
あの男と姉がどうなろうと知ったことではないが――万が一にも、母へ危害が及ぶようなミスは犯していない、と自負している。"ミクスタ"によるあの街の電脳通信網の監視は継続中。関連したワードを検出した際には片っ端から印を付け、内容を精査する。そして情報の全体像や前後の繋がりを確認し、問題が見つかったなら矛盾がなく不自然でない範囲で書き換える。必要であればブレインハックも厭わない。
重犯罪として裁かれて当然の行為が半ば見過ごされているのは、偏に電脳に関連した法律による拘束力が街の外部にまで届かないからだが、そういったことを遠隔地から長期間続けていられるのも、デバイスという規格外の情報処理端末あってのことだろう。
剰えあの街そのものがデバイス関連事件の温床で、連中は日夜それらの処理に追われていることを加味すると、わたしなどにいつまでも人手を割いてはいられないあちらさんの事情も伝わってこよう。
そういう状況に甘え続けるのは当然よろしくないが、仮にも逃亡犯である立場上、まだ暫くは向こうに戻れまい。いずれにせよ、画面越しに様子を見る以外に出来ることはないのだ。
……と、重ね重ね自分の責任だと理解しているものの、今度の正月と誕生日を母と一緒に過ごせなかった後悔の気持ちは、これからずっと心に残り続けるに違いない。
◆ ◆ ◆
イバラシティに暫く滞在しているうちに、幾つか気になるものがあったのでこの機会に書き留めておくことにする。
外部記憶を参照すれば済むのでは、という考えはなるべく早めに捨てされるよう努力したい。
一つ。この街にはデバイスもパルファンも存在しない。
少なくとも"ミクスタ"が感知出来るような状態にはない、という意味において、わたしはそう結論を出した。
元々『電脳都市』外に持ち出された極少数のそれら端末を逃避行の「ついで」に回収出来ればよい、程度の軽い気持ちで始めた捜索活動であるため、成果には始めから期待してはいなかった。
微小な反応を一度検知したこともあったが、AIの搭載された通信端末を誤認したと判明してからは捜索の手が緩むばかりだ。
都市伝説や怪奇現象など、それらしい噂を可能な限り調べては現地に赴くよう心がけてもいるが、二つ三つ本物らしい現象に遭遇出来たこと以外はいずれも粗末なオカルト話だと片付けた方がマシなレベルで、正直さっさと忘れてしまいたくもある。
で、その『本物』について。これは説明するより直接体験してもらうのが手っ取り早い。ただ、外部記憶に複製したわたしのそれは、疑似体験にも映像として出力するにも適さないし、わたしも再度振り返るだけの気概が無ければ、剰え書き起こしたくなるような内容でもなく。おまけに二重の防壁を添えて切り分けてしまったので――やはり現地へ行って確かめる外にない。
……と、そこまで書いてから、わたしは重大な見落としに気が付いたのだ。
かの『エンムスビノイワ』、その特異性を利用したパルファンの幼体が、偶然そこへ訪れたわたしに寄生していたことに。
事の一部は割愛するとして、わたしに取り憑いたパルファンの汚染はかなり危険な段階まで来ていたと言える。それこそ"ミクスタ"が居なければ手遅れになっていたであろうことは想像に難くない。
パルファンは無事に無力化したが、イバラシティでの危機管理の甘さ、警戒心の無さに付け込まれる形となった。
あの一帯の監視網はあってないようなものであるから、目撃者の心配は不要だとしても、屋外でキベルネテスまで使用する羽目になるなど、守り人としてあまりにも油断していたと言わざるを得ない。
今一度、気を引き締めなくてはいけない。
二つ。この街の住民は海棠に比べて異能者の割合が著しく高い傾向にあるらしい。
少なくとも、わたしの在籍する相良伊橋高校や、前の住居の傍にあった創藍高校などは一般人の方が少ないように感じられた。
新年のお祝いムードが原因かはさておき、異能を用いた格闘大会まで開催される辺り、能力者の存在は広く周知されている節がある。能力を見せびらかしたがるのは学生だからではないか、という線はあるものの、わたしの居た街とはどうも根本的な認識からズレているかもしれない。
わたしとしては不用意に能力を曝け出すことには結構な抵抗があり、かといって全く見せずに怪しまれても面倒であったため、この街に来て間もない頃えらく悩まされたのは記憶に新しい。色々考えて、結局、全体から見た一部分だけを「そういう能力」だと思い込ませる手段を取った。実際に物が浮いているところを見せてしまえば、疑う者は少なくて済む。
将来的にこの街を出るにせよ、予定より長く居着くにせよ、なるべく能力の全容は隠し通していきたい。そのためにも「無用なトラブルを避けること」を徹底する必要がある。
――普通に生活していれば気にするまでもないはずであるのに、わたしはまたも面倒事に巻き込まれたようだ。
三つ。これがその面倒な事案。ある意味デバイスよりも質の悪い話。
ある晩、夢を見た。何よりも大きな時計塔を背に、一人の男が語りかけてくる、そんな夢を。
曰く、この街は、この世界は『侵略者』に狙われている、と。
ゲームのやりすぎと一蹴出来ればさぞ楽だっただろうに、残念ながら異形の怪物との命のやり取りには多少なりとも心得がある。その時と違って万全ではないけれど、諸々の覚悟を迫られて逡巡するほど弱くはないつもりだ。
そういう次第で、わたしは夢の男を疑うという発想に至らなかった。
暫くして夢について何人かから同じ話をされた時、わたしはひどく頭を抱えたと記憶している。
この世界を、と前置きしている以上、自分の他にも選ばれた者たちがいることは想像に難くない。だが細かい差異はあれど概ね一致する夢とは別に、一つ大きく異なる夢の話をする者がいた。
調べるにつれて、夢の内容を大きく二分出来ると判ったものの、同時に何か大事なものを見落としているような違和感に苛まれ、何日何週間経とうとその答えに辿り着けず、とうとうわたしは考えることを放棄した。
核心を突きかねない閃きを目前にして、それに手が届かないもどかしさ。
ピースの欠けたパズルは、今もまだ頭の片隅でわたしに手招きしている。
謎を解く鍵は足元に転がっているというのに。
或いは、今はまだその時ではないのか?