ぐるりと、世界が逆さまになった。

視界に映る景色は目まぐるしく変わり、
やがて鬱蒼とした夜の森の姿で固定される。
辛うじて動かせる双眸を巡らせてみると、
傍らに、ペンを持った人が立っているのが見えた。

ゆっくりと手が差し伸べられる。
迷いなくその手を掴むと小さな笑みが口元に浮かんで、そして、


＊　＊　＊


城がぐんぐんと遠ざかっていく。

風に弄ばれて赤く輝いて見えるのは、恐らく王の溜め込んでいたネクターの花片で。
道すがら見掛けた王側の兵士と一揆隊の姿は、いずれも剣を収め、争いの終焉を示していた。
トート村への道はよく覚えている。記憶のままに歩き、川にぶつかればそれに沿って進む。
彼女の歩調を考慮したつもりでも、足は常より遥かに速く湿った地面を蹴り付けていて、
辿り着いた頃、彼女が酷く深く疲れ切っていなかった事にそっと安堵を覚えた。

ひゅう、と穏やかな風が吹く。
子供のはしゃぐ声や船が水の上を滑る音、村人たちの話し声、食事の匂い、生活のにおい。
土地も水は温かく変わりなくこの場に存在しているのに、“暖かさ”は既に旅立ってしまっている。
此処に戻ってきた時の祭めいた騒々しさを思い返し、小さく声を零す彼女へ、視線を流した。
誰も失われていなくても、いずれ此処に戻る日が来ると知っていても、寂しさはあるだろう。

「……人の姿がないってだけでも、結構印象が変わるモンだな。
　つっても、トート村が綺麗で暖かくて、穏やかに過ごせるイイ場所ってのは変わらねーけど。
　何も壊されたりしてねェし、焼き払われてもねーし、おれも安心したわ」

王に直接会うことは叶わずとも、こうして何かを守ることが出来たのなら成果は十分だ。
それが彼女の――否、平穏を望み、変化を愛した彼女と彼らの大切なものならば、尚更。
心からとまでは行かずとも、それでも笑ってみせるその背を、優しく叩いてやり。
視線が合えば、僅かに首を傾いでにんまりと笑った。

「復興手伝いの為に此処に留まる異世界人はもちろん、
　そのままメルンテーゼに腰を下ろすヤツも少なからずいるだろーしなあ。
　穏やかな日常を過ごすには申し分ない環境だし、ちょう人気スポットになるかも知れねえよ。
　ヤドランカや長老たちが帰ってくる頃には、シルフ達もあちこち飛びまわってたりさ。
　そしたらアレだな、船に乗らせてもらって釣りに出っかなー。イイもん釣れそうだし」

その頃にはもしかしたら、ジャバウォックのひとりやふたり一緒かも知れない。
それはまるで雛鳥を連れて歩く親鳥のようだと、しょうもない事を考えて喉を鳴らす。
アヒル族とガチョウ族と、ジャバウォックと人間とエンブリオの集まりを、
あらゆる生き物が混在する闇鍋めいた光景を、いつか、見る事が出来るのだろうか。

ふわりと浮き出てきた彼女のエンブリオに呼応するよう、男の影も波打つ。
ネクターがあれば或いは、精霊達を外の世界に連れ出すことは可能かもしれない。
けれども――と、思案を巡らせた所でふと、視界の先に一本の羽根が映った。

「………、…」

差し出されたものを見遣る。迷うことなく、それを受け取らせてもらう。
真っ白でもなく、けれども重ねた年月を思わせる、立派で美しい長老殿の羽根だ。

話を書くことで世界を作り上げ、悲しい思いをしている誰かを助けられたら。
今も男が“切り裂くもの”を持ってくる事を待っていてくれている魔術師と、
自身の仲間に限らず、かつてのアヒル族のように差別され苦しい思いをしている誰かへ、
かつて男がそしてもらったように、手を差し伸べる事が出来たなら。
その時はきっと大手を振って、長老殿にこの羽根を、ペンを、見せられるだろう。

「ん。サンキュー。
　有難ァく大切に…じゃなくて、とことん使い倒させてもらうわ。
　長老殿のくれた羽根なら、そう簡単に折れたりはしねェだろーしなァ」

冗談めかして肩を揺らし、
羽根から持ち上げた視線で、彼女の双眸を真っ直ぐに見つめた。

「何処に…か。観光の世界ディーグルートに渡る術はあるから、
　まずはそこに行って、あちこち渡るカンジになるんじゃねェかなー。
　アンキッツァ先生に貰ったたんぽぽを植えるトコも必要だし、…」

長く借りれる宿か、或いは少なくとも、たんぽぽが運べるプランターが必要だ。
本を書くならノートと原稿用紙と、インクと、それが入る鞄と、エトセトラ・エトセトラ。
幾らでも、際限なく思い浮かびそうな旅の準備の話は記憶の端に置きつつ、
先程からほんの少し、いやちょっとだけ、割と、低く鳴る腹を押さえて肩を揺らした。

「取りあえずは――そーだな。おいしいものでも食べて、行く先を決めて」

一歩、村の方へと爪先を出す。折角ならば村の名物を腹いっぱい食べるとしよう。
例えばパンの素を捏ねるにしても、魚を釣るにしても、男が手伝える事は多い。
それから、と言葉を続けて息を吐く。それから。まず、やる事は。

「出発する前に…羽根ペンを作るとすっかね。
　それが第一歩っつーコトで、立派なこの羽根を立派なペンにさ」

いつも通りに。
ほんの少しだけ新しいものを添えて。


そうしてゆっくりと、彼女に歩調を合わせて。歩き出す。

メルンテーゼを包んでいた争いの気配―――
強い負の感情めいた重い空気が薄れた気がして、瞬く。

（もぐもぐもぐ）

（ぱらぱらと捲っても、その本に文字は何も書かれていない。まだ白紙だ。
　呪いめいた気配のするそれも、いずれは何でもない、幸せな物語を身に宿すことだろう）