ようやく一揆が終わる。僕はその最後の一日の様子を観察する準備を整え終えるとそっと小さく息を漏らした。
　今更言うまでもない事だが、今回の実験は有意義なものだったといえるだろう。少々苛烈に当たり過ぎたきらいはあったが、それでも僕の“有能な”実験体は良好な結果を示してくれた。それは僕の予想を上回った、という方向性において、まさしく“裏切り者”の面目躍如といって良い類の結果だったといえる。良い意味で裏切ってくれた、というやつだ。
　さすがに今回の件では僕も多少やり過ぎたと思っているのは確かだ。だが、あれを使った実験は既に停滞していた。停滞は全てに勝る害悪だ。停滞は時間を浪費する。無限の時間を与えられた僕でさえ、決して暇な訳ではない。
　それに何より、退屈してしまうというものだ。
　僕は決して、酸に浸すだけで新たな可能性が生まれると考えるほど愚かではないが、それでも刺激が必要だという事くらいは理解している。停滞に対して最も有効な方法は、原始的ではあるが新たな刺激を──それもときには、強烈過ぎるように見えるそれを──与える事なのだ。
　今回、実験体は僕の予想を裏切った、と既に綴った。僕が作りあげたあの実験体は案外潔癖に出来ている。そういう意味では今回の彼の選択は僕にとって新たな驚きをもたらしたものだといって良い。そう、無論あの決断に至る前提として僕がそういった方法を密かに、彼に気付かれないやり方でもって提示したのは確かだ。そうでなければ彼はあのような方法を思い付く事さえなかっただろう。どうにかして絆が生み出す僅かな可能性を食い散らかしながら生き延びようとしたはずだ。
　だが、あくまでも僕が彼に示したのは可能性としての選択肢だけだ。決断そのものは彼が自らで行ったのであり、彼に限らず生物ならば殆どのものが有しているであろう“生存しなければならない”という条件付けの下であの白い風が選んだ手法は、僕が彼に刷り込んだ性質を順当に評価するならば、選択されない選択肢として闇に葬られただけだっただろう。当然、あのときの彼の心情は決断に幾許かの影響を与えたには違いない。だが、それが本当に影響を与えたのはむしろ彼に方法を示してやった一度目のとき、あのいわば“練習台”に対しての際であって、本人がそう自覚していたように“本番”に対してではない。つまりは、あの行動は彼自身が、ひとときの迷いではなく一定の覚悟を持った上で、自らそう選んだのだといえるのだ。

「さて、彼をどうすべきだろうね。」

　僕は区切りの良いところまでを綴ったところで、いつものようにそう囁いた。言ってみればそれは独り言に過ぎない。とはいえ、この無限のときが流れる僕の城で独り過ごす上では、考えを整理するのにはこうした儀式も必要なのだ。
　無論、これを一定の成功と見る事は出来るだろう。生き続けるという本能──特に彼の場合はその性質からそれに執着するように組み上げられている──という前提ではあっても、恐らくは大多数の人間が選択しないであろう方法を選択してでも、“負債”を引き延ばす事を彼は選んだ。それ自体が重要な訳ではない。ただし、彼に与えたはずの“仮面”、要するに性格、性質ならば為し得ない事をやってのけたという意味で彼の決断は僕にとって非常に価値あるものだったのだ。
　成功したのであれば、ここまでの結果を記録しておく為に引き戻すのが妥当だろう。実験とはそういうものだ。勿論天幕の施設を失って久しい僕が新たな素体を用意するのにはそれなりの代償が伴う。都合の良い事に、今の彼は最も彼を気遣う相手との繋がりを絶たれ、本質的には孤独な状態にある。前回のように妖精を此処に呼び出して巻き込むような事はしなくて済む、という事だ。分析して新たな段階の準備に移行するには丁度良い。

「経過観察、じゃない？」

　僕の思考を遮ったのは、聞き慣れた軽やかな少年の声だった。僕の考えを予測して異議を差し挟んだのだろう。

「珍しいね、君が彼の肩を持つとは。それどころか、今回の件に関しては彼の命乞いですらある。」

　僕は独り言を続けるように囁く。この書斎を管理する電子妖精のペルソナ──仮面はあくまでも僕の一部を誇張したものだ。つまり、本質としては実際に独り言の域を出ていない。
　とはいえ、この電子妖精は自立的に思考する。無論それは僕が孤独を気に病んで創り出した為ではなく、有効なやり取りをする為には、そして効率的な管理を行うには自らで判断する能力が必要だったというだけだが、元は僕の一部であったはずのひとつの自己は、僕から切り離されて自由を得た時点から小さな積み重ねでもって僕とは別の存在へと成長した。それ故に、時折こうした意見の食い違いが発生する。僕は微かに頬を歪めながら命乞いの続きを待った。

「妖精の女王の負債は一時的に返済延期されてるように見えるけどさ。あれって誤魔化してるだけ、負債が要求する分の生命力をノーライフキングが発生する偽りの生命力で支払ってるだけでしょ。借金返すのに偽札刷ってるようなもんだよね。」

　それはその通りだ。“命なき者たちの王”が生み出す負の、仮初の生命力を奪っているから妖精の女王の請求が止まっているように見えるに過ぎない。言ってみればそれは、底に穴の開いた容器に際限なく上から水を注ぎ込む事で容器が満たされている、と言い張っているようなもので、決して容器の穴が塞がれた訳ではない。

「そんなに偽札刷りまくったりしちゃ、その内その偽札刷ってるギャングに頭上がらなくなっちゃうよねー。」

　何故か妙なものを愛する風潮のある電子妖精が、彼の好みのひとつである遠い世界の悪漢たちを例に出してそう言った。尤も、その喩えはおかしいにしても、間違っているという訳ではない。
　彼に巣食った不死の王は、彼がそれを食らったが故に彼に吸収され、既にエンブリオとかいうあの世界の限定された契約の相手ではなくなった。つまりは、これからあの白い盗賊が得た様々な手品の如き力は、何かの方法で彼から分離しない限りこれからもあの男の能力であり続ける、という事だ。それは彼が、これまでと同じように世界を渡り自らの望む場所へと移動する為には必要な事でもある。だが、それは彼の能力の一部として彼に同化してしまったあの不死の王がこれからも彼について回る、という事だ。いくらでも生命を生み出す全ての命の王は本質的に彼に従属した訳ではなく、喰らい尽くされたから彼の内側に飲み込まれたに過ぎない。あの男が魂の王の生命力を浪費すればする程彼の中での支配力の天秤は変化し、いずれ機が熟したときには支配そのものが逆転してしまう事もあり得るだろう。
　実際、その変化の兆しは些細なものでありこそすれ、その芽を見せている。

「別にさー、あいつがどうなっても僕は構わないんだけどね、ていうか闇落ちされたら楽しくないよね。遊べないからさ。」

　電子妖精の本質は、其処だけを切り取られ、純粋培養された為に基本的には邪悪だ。つまりは実験体までもが邪悪な性質を強めてしまえば相手を玩ぶ事が出来なくなる、という意味だろう。だが、それであれば尚更に、この場で一度回収してしまう方が良いはずだ。

「ん、でもさ。あそこからどう“今の状態”を切り抜けるのか、面白いところでしょ？」

　鈴の音のように柔らかな笑い声が響く。無論その内容は、一人の人間がどれだけ闇の力に耐えられるのかを見たい、という邪悪なそれなのだが。

「既に彼に一定の提示はしたけれど、ね。尤も、彼があの啓示をどれだけ上手く使いこなせるかはこれからの彼次第だけれど。」

　実験体はこれから自分がどのような状況に置かれているのか、これからその結末を回避する為にどうすべきなのか、ある程度は理解しているようだ。とはいえ、一度飲み込んだものを吐き出すのには苦痛が伴う。もしそれが既に自らの血肉となり、吐き出す事が出来ないところまで進んでしまえば、汚れた血を流し、穢れた肉を切り取るしかない。だが、それに最も近い手段であっただろう選択肢は、かつて彼が自らでその系譜を断ち切ってしまった類のものだ。現実的に可能な方法を探し出し、実行するまでには長い時間がかかるだろう。
　まぁ、良い。僕にしてみれば折角成功してくれた──それが些細なものであれ──ばかりなのだ。性急に回収して断絶を招くよりかは、このまま彼がその運と覚悟でどこまでこの勝ち目の薄い勝負に勝ち続けられるのか、もう少し様子を見ているのも悪くはない。
　ならば後は、彼が何処で続けるのか、だ。
　僕は、僕が創り出した白い盗賊が一人でどこまでやり遂げられるのか、もう少しの間眺め続ける事に決めた。ただ、僕の目的の為に。

唐突な質問に、長い耳が跳ね上がる。

眉根を寄せ、いぶかしげな眼で人間の表情を探る。
小首を傾げ、少し考えてから口を開く。

喋りながら耳を忙しく小刻みに動かしている。頭の中ではいろんな計算をしているようだ。

そういうと、珍しく穏やかな表情で少しの笑みを見せて、続ける。