――そうして男が向けた刃は、夜色のいきものを捉えることは無かった。





死ぬ気で逃げ果せてきたようにすら感じた。
唐突にこの世界で頼っていた力の何もかもが使えなくなって、残された本来の力ではとてもではないが、今まで自分の使っていた力には対抗し得ない。残されたのは目眩ましと素の足の速さくらいで、それで今まで自分が振りかざしてきた力に立ち向かうのは、とても。
使っていたからよく分かっているし、何より、あれは。あれは一体何なのだろうか。

「冗談じゃない」

結局あれがなんなのかは、最後までわからなかった。
コルヌ。コルヌ？コルヌだったのか？いつからコルヌじゃなかったのだろう、それとも初めからそうだったのか？使役するものに情を抱くとろくなことにならないということか？
考えたところでもはや意味は無い。契約は放棄された。この世界にいる意味も、もう、ない。

……なくはないけど。

「ごめん」

せめてこう、最後に挨拶する暇とかそういうものがあれば。もとある力で誤魔化しながら移動していくのは可能ではあるのだろうけど、今までと比べてしまうとどうしても後込みする。
思えばそうして誰かと話すことだってろくになかった自分が、よくもこう、続けられていたなあとは思わなくもなくて……そも、一揆とやらが終わるまでここにいる予定もなかったというのにまた。
そういう機会を得たというに、それを結局放り出して。そして逃げるようにここを去る。自分は何を得られたのだろう。

得たと思った繋がりは投げ棄てていく。

　　　　ひよこのような白いフードを被った少女とは、世界の話をした。
　　　　猫。それはエンブリオだという。花売りに従っているらしいエンブリオ。
　　　　スライムの勇者とは、故郷に行く約束をした。本を見せてもらえる(はずだ)。
　　　　うさぎの獣人の少女とは、他愛もない話をした。彼女はこれからもここにいるのだろうか。
　　　　一時期共に旅をした機械には、貴重な体験をさせてもらった。
　　　　その仲間だった鎌を持った少女とよく分からない板を持った鎧は元気だろうか。
　　　　初めて間近で見たドラゴン、次元竜は、また世界を渡って何処かへ行くのだろうか。

　　　　後のほうは世話になりっぱなしだった壁を連れた馬鹿は、――

「ああ、くそ、ちくしょう」

思い返せば返すほどに種々の放り投げてきた後悔とどうしようもない現実(という言い訳だろうか)と何もかもとそれからそれから

「……。……ああ、」

唐突にすとんと腑に落ちる。
これを、これから、やることにすればいいんだ。

「またいつか」

その時までどうか。
自分の事を覚えていてはくれないだろうか。

光が散る。風が吹く。次の瞬間に、夜色の生き物の姿はそこから消え失せてなくなっていた。





「……まあ、当たるわけがないか」

空振った手を下ろして、一息ついた。
あれはもとよりそう言ういきものである。勝てそうにない相手には手など出さないし出させもしない、媚び諂うか逃亡するかして保身する。それは今まで付き従っていれば分かることだった。
ヘリオドール・アスター、――元主人、とは、何もかも終わるまで言葉を交わすつもりはなかったけれども、それはそれだ。もう過ぎたことだ。ただ本当にエンブリオ……というか、エンブリオとその契約者の間に与えられるそれ、ネクターを介した生命力、それは確かに自身の助けになった。なのでそれはどうでもいいとして。
瑠璃の墓場は余計なことをしてくれたな、と思う。――【誰がための自己犠牲(スケープゴート)】と引き合わせるとは。

「……」

あれはあれで、馬鹿正直に素直だったな、と思う。あれが最終的に外殻とした角兎の力も、結局自分の手中にある。
あれはまたどこか別の世界に運ばれていくのだろう、挙動からして自力で世界を渡る手段はないと見た。だから従ったのだろうとも思うけれど、もはや知るすべはないし、知ったところで興味もなかった。

「不思議なもんだ」

世界は思ったより狭いのではないだろうか。
ただ、元気そうだったり、幸せに暮らしたのだろうことが分かったのは、とてもよかった。
一瞬せめて一目見るだけでも、とは頭を過ったが、今更自分が出向くようなところでもないだろうと思った。そもあの本の中で出会えた事自体がイレギュラーなのだ。こうしてここにあることも当然そうだ。もはや理を外れてしまった身なら、軽率な行動は控えるべきだ、……そう考える頭は未だある。ならもうしばらくは。もうしばらくは、平気であって欲しい。

「……さて」

主導権を握った、というか、確かに分かる形で外殻との契約を投げ捨てさせた今、この世界に於いて自身を縛るものはない。
自由に動ける。ただ、一揆は、終わった。終わるのだ。曰く一月ほど遅れて入ってきた身が、どれほど役に立てていたかといえば、と言ったところではあるけれども。それはもう仕方のないことだろう、とも思った。
凱旋のひとで賑わう、街の場所は知らない。かと言って行く気もない。やはりは。

「……」

強引にこじ開けようとしたその痛みを。
見せたくないものへ無遠慮に踏み込んできた怒りを。
許可なく自分に触れてこられた苛立ちを！
何もかも、すべて、ここに纏めて！！

「ああ、ああ！覚悟しろよ、――」

――リン。

「理不尽と笑うか、俺を笑うか、それはそれで構わない、ただ、ただ……許し難いのは、分かれよ、俺は、」

――リン。

「俺はただ、　　　　　に」

――

「……会いたいだけなのに」


それは過去の話だ。
それは死ななければ出会わなかった奇妙な縁だ。
それは再会しなければ生まれなかった奇妙なつながりだ。
それはひとをやめて、(――死んでいた時点でどうのこうの言ってはいけない)この世界にしがみつくようになった原因だ。
それは確かに自分を変えた。
それは今でも自分を変え続けている。

もはや過去の自分を思い出すのは大変に難しい。そんなようにすら錯覚する。
ふ、と息を吐く。

「ああ、……」

足を一歩踏み出す。それはそのうち小走りへ、そして駆け足へと変わっていって、木々を踏みしめて走りだす。
探せ。探せ、怒りが衝動が止められない何かが全身を支配して駆け巡って、抱えている何もかもを原動力とする。覚悟しておけよ、と伝えた相手を、

それはただの八つ当たりじみた何かにすぎない。

「――」

知っている。知っているし分かっているのだ、けれどもそれへの抗い方は忘れてしまった。何かで蓋をしたか壊したかしたように思い出せない、もしくは動作を停止している。そこまで分かっているのに、それに対処できない自分が尚の事腹立たしく、
――いつから？

「……くっそ、……」

泣きそうになる。だがそれでも駆ける足は止まらず、そして涙は零れない。
空の湛えた悲しみは怒りは、雨にならずに嵐になるしかない。嵐を制御する方法は見いだせていない。

そしてそのうち、見知った姿が見えてくる。
雨粒がひとつ、落ちる。地面に吸い込まれて消えて、何もわからなくなった。


ENo.1302の日記へ続きます。

段ボールの中に、身長22センチくらいのギガヤがいっぱい詰まっている