あまりにも、唐突だった。

なにもない空間を、ただぼぅっと眺める。
つい先程まで、先生が居た空間を。

先生と出逢ったのは、一揆が始まってすぐの頃だった。エンブリオだと思って契約を申し込んだのだ。
それ以来、何も言わずにずっと付いてきてくれたから、エンブリオだと思い込んでいた。

一揆の最中、行軍のときも、戦いのときも、そして心休めるときも、先生はいつも傍に居た。
時には喧嘩もしたけれど、頼りになる相棒だった。

一揆が終わっても、変わらず ずっと付いてきてくれる。そう思っていた。思い込んでいた。
それが、突然に居なくなった。


残されたネクターを見つめ、途方に暮れる。


先生は、去り際に何かを伝えようとしていた。

薄れてゆく声に、全部は上手く聞き取れなかったけれど…
私の為に、ネクターを残してくれたのだということは理解できた。


けれど…

このネクターで、何をすればいいのか判らない。
ただ呆然と、手の中のネクターを見つめる。

ロク君が、心配そうな様子でこちらを伺っている。
何か言葉を返そうとしたものの、頭の中が真っ白で上手く言葉が出てこない。


私は…　何をすれば…？


「……ロクと契約をしろ、ってことじゃないかな」

立ちつくしていた私に、鼠の少年がそう告げた。
こちらを見上げていた彼に顔を向けると、彼は視線から逃げるよう その目を逸らして話を続けた。


「ロクは純粋なエンブリオじゃない。半分は人間だ。
　普通のエンブリオの強制契約はネクターじゃ抑えきれないけど、
　半分だけのロクなら、ネクターを使った契約で抑えられるかもしれない」


話すにつれて、こちらを見上げていた彼は、また俯いてゆく。


「たぶん、そういうことだと思う」


視線を落とした彼は、そこで言葉を止めた。

ロク君の方をちらりと伺う。

以前、ロク君とは契約の真似事をしてみたことがあった。
エンブリオと人とはどう違うのか…そんな話の中での、ほんの冗談のつもりだった。

あれには驚いた。契約の反応があったのだから。
ネクターが輝いたのは一瞬だけだったので、その時は何か見間違えたと思っていたのだけれど。

正式に契約を取り交わせば、もしかしたらそれは成せるのかもしれない。　ただ…

ロク君と、スチュアート君を、交互に見る。
困惑と躊躇、落胆と憔悴が頭の中で入り混じり、答えに窮していた。すると…


『セリィおねえさん。ひととえんぶりおって、いろいろなつながりかたがあると小生はおもうのです。
いのちとちからをやりとりするだけじゃない。
おたがいをたいせつにおもう、いっしょにいきていくようなけいやくだって、きっと――』


少しの間 考えていたロク君が、ボードを掲げてこちらを見つめていた。


『おねえさんとけいやくして、きょうせいけいやくが…おねえさんのいのちをうばわなくてよくなるなら…。
小生は、おねえさんとけいやくしたいのです。』


穏やかな、しかし確かな決意を秘めた瞳。

ロク君の決意を受けて、覚悟を決める。静かに、彼に歩み寄る。
手の上にネクターを置き、彼の手を取る。ネクターを挟んで、掌を重ねた。

彼の、金色の瞳を覗き込む。彼も、私の瞳を見上げている。二人、お互いを見つめ合う。



ゆっくりと、誓いの言葉を唱える。

わずかな静寂の後、ほんのりと紅い輝きを放つネクター。掌の中に感じる、温もり。

すぅっと、身体が軽くなる。
気だるさも、息苦しさも消え失せ、鎖が解けたような、世界の輝度が一段増したような感覚に包まれる。

そして感じる。彼の生命を。命の共有。共に生きることの、契約を。










「うまくいったみたいだね。……おめでとう」


黙って一部始終を眺めていたスチュアート君が、口を開いた。

述べられた祝辞。けれどもその表情は、まるで何かを堪えているような。
……無理をして笑顔を作っていることが、解る。

「……僕は、もう行くよ」


目を伏せ、言葉少なに別れを告げて去ろうとする。

思わず、呼び止める。
このまま、彼と別れたくはない。彼には、何かと世話になった。その礼を、したかった。

それだけじゃない…

彼との気持ちの整理がつかないまま…　別れたくはなかった。

もうしばらく、メルンテーゼに留まらないか？と、もちかける。

けれど彼は俯いたまま、自らを抱くように腕を組んで。


「……また他の世界の人が集まる分割世界を巡って、訊いて回るだけだ。
　当てなんて無くても、探さないと……このままでいれば、必ずそうなるんだ。例外なんて無かった。
　僕が追放されるまでにこうされた人も、僕と一緒に追放された友人も、みんなそうだった……」


そう言って、顔を上げる。寂しげな、泣き笑いを浮かべて。


「ノースロップ。今まで君に迷惑をかけてきたことは謝るよ。
　こんなことを言える立場じゃないのは解ってるけど、ロクのことは、君に任せるから。
　それじゃ、……さよなら」


背を向けて、足早に去っていくスチュアート君。何かに、急かされる様に。

かけようとした言葉は立ち消えて、離れてゆく彼の後姿を ただ見送る。
彼には終ぞ、想いを汲んで貰う事ができなかった。

いや、彼の想いを汲むことが出来なかった…と言うべきだったろうか。


俯き、うなだれる。


傍らで、震えているロク君が目に入った。
慕っているスチュアート君との別れが、こんな形になってしまうなんて…

悲しそうにしていたロク君が、おもむろに一歩を踏み出した。そして…

声の限りに叫び、一目散に駆け出す。

声に驚いて足を止め、振り返るスチュアート君。
そこに走っていったロク君が抱きついた。

ロク君を抱きとめたものの、勢いに押されてよろめき、尻餅をつくスチュアート君。
ロク君は構わず胸に顔をうずめて、涙ながらに溢れる想いを伝えていた。


我に返って、2人の元に歩み寄る。

戸惑っている様子のスチュアート君に、言葉をかける。彼は、私の呼びかける声に、顔を上げる。
私も、想いを秘めたままに別れたくは、なかった。

努めて穏やかに。

しかし、声は次第に陰り…

胸に手を当て、堪えるように襟元を握り締め、言葉を続ける。

絞り出す言葉は、かすれてゆく。

視線を上げて、涙を堪える。それでも堪えきれず、あふれる雫。
私では、彼の痛みを癒せない。それどころか、ただ彼の苦痛を、苦悩を増やすだけにしかならないかもしれない。

けれども、けれども…



彼は、私の友人だ。一揆を共に戦った、メルンテーゼを共に歩いた、大切な仲間だ。
彼の為に出来ることが何も無いのならば、
ただ彼を覚えていることを、この想い出を記憶に刻むことを許して欲しい…。








話を終えて幾許かの間。
落ち着きを取り戻した黒猫の少年。鼻をすすると、鼠の少年の瞳を覗き込む。そして…


大切な友達だと…　離れていても、何があっても忘れないと…　
大事な友達の為なら、いつでも力を貸すと…　　その真摯な心を、伝えた。






聞き終えた鼠の少年は、ゆっくりと半身を起こす。
右手をつき、俯いたまま、猫の少年の胸に額を当て…　時折言葉を詰らせ、震える声で。


「……違う、違うんだ……元々できない約束を言い出したのは、僕からだ。
　君と一緒にいることだって……僕が勝手に思っていることで、
　大切な友達と離ればなれになりたいだなんて、考えるわけない。
　君の隣じゃなくても、……君の近くで一緒に過ごしていけるなら、僕だってそうしたい、けど、
　……でも、今は、そうするわけにはいかないんだ」

「ここを発つ前に君たちに会ったらこうなるだろうって、思ってたから、
　……だから、一人で行こうとしたのに」


左手で縋るように黒猫の少年の服を掴み、頭を強く押し付け、涙をぼろぼろ流しながら…


「……もしかしたら、方法なんて、見つからないかもしれない。
　4年も、君と最初に約束しようとした3年でも、保たないかもしれない。
　でも……どうなったとしても、いつか必ず、会いに来るから。
　友達の……君たちのことも、約束も、絶対に、忘れないから……」
























遠く、小さくなってゆく、彼の後姿。

見えなくなってもまだ、目を凝らして彼の残滓を捜してしまう…

祈るように、願うように。彼の去った道を見つめて、呟く。

いつまでも、別れを惜しんでは居られない。指先で、まだ残っていた涙を拭う。
彼が自分の未来を掴み取る為に進むように、私たちもまた、歩みださなければ。

傍に立つ、黒猫の少年に声をかける。

そっと手を差し出す。これからの人生を共にする、伴侶に。
繋がる手の温もりと、嬉しさにこぼれる微笑み。


街並みに、夕陽が落ちる。





想いを馳せる。これからの日々に。
貴方と共に歩む道。きっとそれは、素晴らしい明日へと…　メルンテーゼの未来へと続く道なのだろう……

やるきまんまんのようです。