見送った背中が見えなくなっても、しばらくカサネはその場に留まっていた。
　街道へと続く森の端は今日も静かで、風が枝葉を揺らす音や小鳥の囀りといったいつも通りのここでの“日常”があった。

　この世界に来てから２ヶ月ほど経っただろうか。
　カサネを取り巻く状況は今や劇的に変ってしまった。
　それでも、自分が物を喰らい、息をして、そして生きていることに変りはない。

　一つ、息を吐いて目を閉じる。
　腰に吊るした武器の重みを意識した。
　すっかりと手に馴染んだナイフのグリップの感触を一度確かめて、手を離す。

　そうして、目を開ける。
　見えるのは相変わらずの風景。
　そこにほんの十数分前に見送った広い背中を幻視する。

　踵を返す。
　いつものように森の中…ではなく、反対方向の街道へ。
　常ならば回避してきた、人の気配の濃い方へと向かって歩みを進める。


「行くのかい、主殿？」


　傍らに寄り添う獣の気配に、しかし振り返らず、また歩みを止めることをせずにカサネは頷いた。
　そう、とだけ返事が返る。

　正直、この件にエンブリオを巻き込むのにはまだ抵抗があった。
　しかし“成り損ない”一体だけを相手取ってあの苦戦である。それが完全に“喰われた”者だったなら…そして、複数を相手にするのなら、彼らの手が必要だった。
　

「迷っているのか、主殿」

「……そりゃな」

「でも、俺達がいた方が助かるデショ？」

「……そうだな」

「ならば、悩む必要などないでしょう」


　ふわりと花の香りがして、傍らを黒髪がすり抜けていく。
　踝に届こうかという長い髪がくるりと振り向いた彼女の動きに合わせて広がり、弧を描く。


「何を躊躇しているかは大体想像つくけれどね…」


　緩く腕を組んで柔らかく笑みを浮かべた朽葉から、しかし伝わってくるのはピリピリとした怒気。
　目を瞬かせ、思わず歩みを止めたカサネは息を呑む。

　常ならば閉じている、彼女の盲いた目。
　その名を付ける由来となった枯れ草色はそこになく、焦点が合わないながら向けられたのは鮮やかな新緑。


「見縊らないで頂戴な。私達は、私達の意志で貴方の傍にいるのだから」


　朽葉の言葉に同意するように、エンブリオたちがカサネの前に姿を現す。
　そのどれもが、カサネを見ていた。
　そして、主の言葉を待っていた。

　詰めていた息を吐く。
　やはり、主だなんてのは性に合わないのだが……今はそんなことを言っていられる状況ではない。

　約束したのだ。
　何があっても、何年かかっても…絶対に、課せられた役目を果たして“帰る”から、と。
　そのためになら自分は何でもできる。
　何でもする。
　そう決めた。

　人の波に揉まれることも、誰かに命令することも、他者の命を奪うことですらも、この世界での全てが終わった後でカサネが成そうとしていることに比べれば、容易いことなのだ。
　届くところに手段があって、そう在ることを望んでいるのなら…それは利害の一致だろう。
　だからもう、躊躇ってる場合ではない。
　今一度、目を閉じた。


「……悪いな」


　謝るのも、これが最後だ。
　目を開ける。
　顔を上げる。
　マフラーを外して巻き直した。
　歩みを再会する。
　エンブリオたちの間をすり抜けて、ただ前へ。


「往くぞ」


　布に阻まれない声は、後方まで明瞭に届く。
　置き去りにしていた気配たちが、一斉に自分を追いかける。






























　この瞬間、カサネは初めて正しくエンブリオたちの主となったのかもしれない。
　エンブリオを“力”として享受することを認めた青年の歩みに迷いはなかった。

　成すべきことを果たす。
　それは結果として、あの広い背中を守ることにも繋がる。
　どれだけ距離が離れていても、いずれ世界を違えるのだとしても。

　歩きながら術式を展開する。
　足元の影がざわめき、広がり、意思を持つかのように纏わりつく。


「――…常闇満つる処に在りし者 “界”の守り手にして門番」


　声に魔力を乗せ、紡ぐ。
　常ならマフラーの下でしか呪文を口にしてこなかったが、憚ることの無い今、詠唱は朗々と響く。


「手繰れ、繋げ、彼方と此方　道成し、導け、浮影の先へ！」


　ぞぶりと足が影へ沈む。
　カサネの歩みが止まることはなく、ゆえに追従する者達の歩みも止まらない。
　影の道が繋いだ先は、もう馴染みの場所となった城内だった。
　一瞬、カサネは探るように宙を見据え、しかしすぐさま歩みを再開させる。

　以前から薄々感じていたことだが、この場所には訓練場と同じ“闇”がいる。
　淀んで、濁って、昏いものになってしまった気配に満ちている。
　色んな気配に首筋がざわめく。
　そしてそれ以上に、項の傷痕がちりちりと痛んだ。

　いる。
　ここには、確かに。

　根拠などなかった。
　完全に勘でしかなかったそれは、ここにきて確信となった。
　あの時と同じ、本能が訴える感覚。
　焦がれるように、急かすように、血の巡りの中から体中に声が満ちていくように。
　“あれは危険だ”
　“あれを許すな”
　そう訴える。


「レヴナント、此処から先に誰も通すな。エンブリオは勿論、一揆参加者も」


　命じれば、死竜が軋んだ声を上げて歩みを止めた。そのまま後ろを塞ぐようにして留まる。


「セトルとアウイン、辰砂、紫紺は露払いを。エンブリオ連中は任せる」


　氷狼は短く唸り、朱雀は楽しげに一声鳴いて、輝石の妖精は静かに翅を震わせ、白蛇は些か不満げにそれぞれ散っていく。


「朽葉は補助を、お前は回復を…危なくなったら隠れてろよ」

「あら、補助だけでいいのかしら？」


　くすくす笑う朽葉の横で、小さな光がくるくると回る。
　取り敢えずは手を出すなと視線だけで伝え、濃くなる闇の気配に踏み込んでいく。
　項の傷痕は、今や無視できない痛みを訴えていた。


「ルベド、ニグレド」

「はぁ〜い❤」

「此処に」


　名を呼べばすぐに喜色に満ちた返事が返り、思わず視線をそちらに向ける。
　双頭の獣は牙を見せて笑っていた。
　うずうずと、戦いが待ち切れないといった様子は、エンブリオたちのまとめ役である彼らにしては珍しい。

―― 否

　自分の深いところから、自らの考えを否定する声が響く。
　それは、彼らの名前を思い出した時に似ていた。
　ああ、と納得する。

　知っている。
　覚えている。
　この獣達は、本来こういうものだ。
　ならば――…


「……許す。存分に暴れろ」


　金と赤の目が微かに見開き、次の瞬間二つの頭は同時にすぅっ吐息を吸い込んだ。
　低く高く、二つの遠吠えが重なり合えば、その姿は瞬く間に黒い炎と化す。
　燃え広がった炎は枷を外されたかのように歓びに打ち震え、歓声を上げるように轟と音を立てて淀んだ闇へと突撃していく。
　炎の爆ぜる音に混ざった悲鳴は巻き込まれたエンブリオのものか。
　それとも。

　右手で胸元の服をぎゅっと握り、ナイフを引き抜く。
　影の獣は寄り添い、その先を見据えた。

　炎と化した獣が焼き尽くした扉を越え、肉の、脂の焦げる臭いに眉を顰める。
　首筋が総毛立った。
　ダンスホールと思しき広間には、黒い炎と異形がひしめき合っている。
　その様は異様で、不快で、嫌悪感を呼び覚まされるのに…刃を手にした瞬間に目覚めたものがあった。

　それは高揚であり、陶酔であり、御し難い愉悦。
　気付けば、カサネは床を踏み込んでいる。
　唐突に幕開けた戦闘に混乱する異形達に構わず斬り掛かった。

　蟷螂のような腕を切り落とし、鱗の生えた尾を穿ち、詠唱する喉を潰し、阻む盾状の骨を蹴り砕く。
　刃で切り裂き、炎で焼いて、影で削っても、それでも、それでも…異形の数はなかなか減らない。
　何の準備もなく敵陣に特攻をかけたに等しいこの状況では、当たり前なのかもしれないが。

　だが、逃してはならないと思った。
　そしてそれ以上に、この身に流れるあの男の血が、あの場所より深い処にいる存在が、退いてはならないと命じるのだ。
　退けない。
　しかし攻め進むには足りない。
　力が、魔力が、経験が。
　足りない…

　足りない、足りない、足りない…

　足りない　足りない　足りない　足りない　足りない…！

　足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない…！


　刃を振るいながら、影を躍らせながら、願った。
　力が欲しい、魔力が欲しい。
　目の前にいる滅ぼすべきものたちを、速やかに屠るための力が欲しい――!!













『ようやく呼んだか…ああ、まったく、この意地っ張りめ…さっさとそうすりゃ良いんだよ』














　呆れたような、けれど笑みを含んだ声が聞こえ、唐突にカサネの視界が暗転する。
　それはまるで目隠しされたかのような。
　体がぐいと後ろに引っ張られる。









「代わりな、坊主」



　





　すぐ耳元で彼が囁くと同時に、カサネの意識はふつりと途切れた――…