竜退治。それは子供たちが胸躍らせる冒険譚でも典型的なもののひとつだろう。囚われの姫を救うためだったりそれが貯め込んだ財宝を手にするためだったり。その端々は様々に変化するものの、その目的である敵は巨大な竜だ。その巨躯は途轍もない力を生み出し鋭い爪と牙はたやすく鎧を切り裂く。口からは炎を吐き骨までまさに一息で炭と化す。背には巨大な皮の翼を背負い、人の手の届かないところから急襲する。時には魔法や天候さえも操るそれは、人間がおよそ自然に対し抱く恐怖の全てを詰め込み具現化した魔物だといえた。


　今またここに、ひとつの竜退治の物語がその終わりを迎えようとしていた。建国以来その咆哮を轟かせることのなかった火の山が煙を吐き、炎を吐きだして灰を降らせるに至って国の魔術師はこう結論付けた。建国の祖である初代の王が伝承に記した竜が眠りから目覚めたのだ、と。それは国の終わりを意味していた。実際に降り積もる灰により国土は荒廃し、数年の内に農地は不毛の地と化した。賢明なる現王の施策によりまだ数年の食料の備蓄を残してはいたが、魔の山はその勢いを弱める様子は一向になく、遂にその火口から真紅の巨大な姿が飛翔する様子が確認されるに至って王は決断を迫られた。竜を退治するか、少なくとも初代の王がそうしたように今一度火口の中に追い返し再び眠りにつかせる他ないと。
　火口から徐々にその行動範囲を広げ始めた巨大な竜は、遂に辺境の長閑な村が存在するところを知った。長閑だった村はその日の内に瓦礫と木と肉が焼ける臭いの充満する廃墟と化し、その知らせをもたらす早馬が王都に到着するまでにさらに四つの村が灰燼に帰した。村と農地、そして国民そのものが焼き払われていく間に王は出来る限り迅速に兵を組織し、初代の王から伝わった竜退治の刃を持たせた上で彼らを魔の山に送り出した。
　騎士に率いられた兵が三百。これは竜が地上に降りてその猛威を振るい始めた場合に、他の部隊を守るために配置された護衛部隊だ。それとは別に五十の訓練された騎士たちが馬を駆り、普段から培った馬上槍の技術で竜を貫く準備を整えている。
　彼らの後ろに控えるのが弓を持った部隊でその数は一千と彼らの中で最も多く、この軍隊の中核を為している。彼らはそのほとんどが軍人ではなく狩人や近隣の村から集められた者たちだが、普段から弓の扱いには慣れており、また自らの故郷を守らねばならないという覚悟に裏打ちされて士気は高かった。彼ら弓手は恐らく空からやって来るであろう竜に対しその矢でもって応戦し、敵を人の手が届くところへ引き摺り下ろすか、出来ることならば撃ち落とすために準備していた。
　そして彼らを本当の意味で守るのが、弓手たちと歩兵の間、むしろ彼らに守られるように厳重に周囲を囲まれた集団だった。たった五十、騎士たちと同じ数しかいない彼らは法衣に身を包み、中央の司祭長の指示で奇妙な戦列を組んでいる。彼らが行う大規模な祝福は、竜がやってきてその吐息を浴びせてきたときに、これらすべての部隊をその炎と熱から守る役目を果たすはずだった。
　彼らは火の山から少しばかり離れた村の焼け跡にほど近い平野に陣取り朝を待つ。朝、彼らの到着に気付いた竜がこの無礼な侵入者たちを見咎める訳がない。そうしてやってきた竜に対し、ここは人間の土地だと知らしめるのだ。

　最初にそれに気付いたのは、目の良い狩人たちの中の一人だった。鳥を狩ることを生業にしていたその男は、ようやく明けはじめたばかりの朝の光の中で、鳥と同じように空を舞う小さな影に気付いたのだ。そしてその小さな影が巨大なものになり、遥か遠くながらその姿が見分けられる頃には迎撃の号令が行き渡り準備が整っていた。
　近づいてくるその影に弓手たちが矢を射かけ始めるもののそれはまったく届く様子がない。対象があまりに巨大過ぎて目測を見誤っているのだ。最初に竜を見つけた狩人はそんな失敗はしなかった。弓を目いっぱいまで引き絞り、それが確実に射程圏内に踏み込んでくるまでじっと待つ。村の中で最も大きな建物である集会所よりもさらに大きいと聞いていたからそれに矢が届くまでにはまだ距離がある。首都にある大聖堂よりは小さいと聞かされていたが、実際にそれを見たことのない狩人には何の意味もない情報だった。
　思っていたよりはゆっくりと、軍隊の上空を竜が通過した。鳶が頭上を通り抜けるような長閑さで、その翼が巻き起こすだろう風さえも彼らには届かなかった。だが、その巨大な影は軍隊の一部をひととき陽の光から遮った。やってくる竜に対し今や矢がひっきりなしに射かけられていたが、狩人の目で見る限り竜に届いたものはない。そもそも彼の弓の届かないような高空を通過したのだ、彼に出来ないのだからこの弓手たちの誰にも出来はしない。
　竜が頭上を過ぎようとする辺りでその身を翻した。その様子を見て周囲から歓声が上がる。実際に矢が届いたかどうかはともかく、その射撃で竜がさらに高いところへと逃げたように見えたのだ。だが、狩人はその動きを見て、隼が風に乗って遥か上空へと自らを運ぶ姿を思い出していた。
　来る。
　その思いが形になるかならないかの内に、上空で旋回した竜が大きな翼を広げて滑るように降りてきた。再び矢が射られる。相変わらず射程よりもさらに遠いところへ撃つものだから誰一人竜に矢を届かせることさえ出来ていない。狩人はじっと待っていた。
　それは狩人が弓を引き絞り、最後の狙いを定めた瞬間だった。地面が揺れたのかと思わんばかりの巨大な振動が空気を揺らした。竜が咆哮を上げたのだ。まさにそれは大地を揺るがさんばかりのもので、だが実際に揺れているのは自分の足元だった。心を打ち砕く竜の咆哮がその最初の一撃だった。
　咆哮に平静を乱され、撃つ機会を逸した狩人が目で竜を追う。途轍もない風を孕んですぐ頭上を大きな影が通り過ぎ、そのまま通り抜けた。騒がしい周囲に目をやると、今の咆哮に動揺した者たちがてんでばらばらに、隊列を乱して慌てふためいている。耳を押さえて蹲る者、弓も矢も放り出してあらぬ方向へと駆け出す者。その数は全体の三分の一程だろうか、訓練された歩兵たちや司祭、騎士たちは動じてはいないものの、基本的に一般人の寄せ集めでしかない弓手たちはそうはいかなかった。弓手たちを束ねる騎士たちが必死に隊列を立て直そうとして腕を振り上げ何かを叫んでいるが、それは遠くにしか聞こえなかった。今の竜の叫びで耳をやられたのだ。静かな喧騒とつんざくような耳鳴りの中、狩人は竜の行方を目で追う。ちょうどそれは、今一度その巨躯を翻しこちらへと向かってくるところだった。
　射程に捉え、狩人が素早く矢を放つ。一本目は鱗に阻まれて弾かれた。二本目の矢が薄い皮膜に突き刺さるのを見ながら狩人は竜の巨大な頭に狙いを付ける。引き付けろ、引き付けろ。十分に自分の矢が威力を発揮する距離まで竜が飛来してくるのを待って、矢を放とうとしたその瞬間。
　狩人の見ていた竜の頭が、巨大な火球に包まれた。

「ありゃ酷い有様だな。」

　荒れた山肌を上る足を休め、斧を担いだ大男が眼下に目をやって呟いた。彼の視線の先にはそこだけが黒く塗り潰されたように焼き払われた平原が見える。戦いの趨勢はとうに決し、残った敗残兵たちをたった一匹の勝者が無慈悲に殺戮しているところだった。時折赤い光が閃いて見えるのは、残った司祭だか騎士だかに向けて吐息が放たれているのだろう。最後の一人まで焼き尽くそうとでもいうのか、竜は執拗に軍隊があった場所に留まって一帯を文字通り蹴散らしていた。
　咆哮で隊列の乱れた弓手たち。それを立て直そうとする騎士たち。司祭たちが弓兵たちを全て炎から守るには部隊は広がり過ぎていた。そもそも中心部である司祭たちとその周辺はともかく、竜の吐息が強力過ぎて全体をその熱から守り切るには彼らの祝福は無力過ぎた。結果、二度目の攻撃である吐息でその大半を焼かれ、その時点でほとんど決着はついていた。炎を凌いだ司祭たちに目を付けた竜がそこへと舞い降りる。どうにか動揺する馬を御した騎士たちの幾人かが竜へと必死の突撃を仕掛けたものの、ただ一本を除いてそれは竜に到達することさえなく、唯一竜にその槍を突き立てた騎士も直後にその大きな爪で馬ごと薙ぎ払われてどこまでが人間でどこまでが馬なのかも分からないような塊に変えられてしまった。
　無論、この場にいる者たちにそこまでの様子は見てとれないだろう。並んでいた軍隊が蹴散らされ、時折炎が閃いてその度に上がる煙が増えていく程度にしか見えないはずだ。唯一人並み外れた視力を持っている盗賊の彼だけがその惨状をどうにか認識することが出来たのだ。そして当然彼は面々にその状況を伝えることはしなかったから、この場にいる者たちがその地獄絵図を知ることはなかったのだ。それでも、大男が言ったように“酷い有様”であることは十分に察することが出来たのだが。
　男たちが再び岩だらけの山道を登り始める。その人数はたった五人。これが本当の“竜討伐隊”だった。彼らを魔竜の本拠である火の山に無事向かわせるためだけに、今眼下で焼き尽くされた一千余名の兵たちはあそこに終結したのだ。
　戦士が一人。獣の毛皮を身に付けただけの半裸の男は蛮族の出身で巨大な斧を担いでいる。国々の傭兵で名を挙げる途中でこの国に立ち寄った風来坊だ。
　司祭が一人。まだ歳若いが神の祝福を受けたと噂される天才で、焼き尽くされた司祭たちが集団で行った防火の奇蹟を一人でやってのけるほどの才能の持ち主だ。
　魔術師が一人。深くフードを被り金色の瞳を隠した青白い肌の彼は、その命と引き換えに無尽蔵の魔力を得たという曰くつきの人物で、遥か国の辺境に立つ彼の塔からわざわざ招聘された。
　盗賊が一人。何をやったものか城の地下牢に捕えられていたその男は道案内とその身のこなしを買われて同行させられた。
　騎士が一人。唯一竜退治の物語に相応しい身なりをした彼は、それでも物語の主人公になるには聊かとうが立ち過ぎていた。それでも騎士たちの中で馬術と剣術で名を知られた男であり、このばらばらな面々をまとめ上げるのに四苦八苦しているとはいえ彼以外にそれが出来そうな人物もいないのが現実だった。
　竜がねぐらである洞穴に戻るのをその中で待ち受ける。司祭の祝福に守られた盗賊と戦士が竜の気を引きその間に魔術師が魔法で拘束する。騎士が初代の王が遺した竜殺しの刃で竜の命を絶つ。竜の牙から削り出されたという小剣を本人に返してやるのだ。それが彼らに与えられた小さな作戦で、実行できるのはこの国に彼らをおいて他になかった。


　ようやく竜たちとそれを従えていた男を倒し、アイヴォリーは大きく息をついた。本来の彼女の目的だったとはいえ、いきなり先導してくれる者を見つけだしここへ導いてきたシェリーの行動力には驚かされた。もっとも、彼自身の目的であった“命なき者たちの王”の討伐に付き合わせたのだから否応もない。だが、それであってもこの竜の数には辟易させられた。ここまでの道を案内してくれた同道者が有効な策を持っていたのは幸いだったというべきだろう。結果として三匹の竜とその主人を討伐することが出来たのだ。

「ヤレヤレ、ヒデェ戦いだったぜ……。」

　足元で力尽きた竜たちの骸を見下ろして一人呟く。それでも満更でもなさそうに口の端を歪めたいつもの笑みで。
　明日は以前に出会った死霊使いの司祭のところへ向かうという。黒幕が誰だかという参加者に倒されたことで、この一揆は終わろうとしているのだ。それまでの短い時間で、彼らは銘々がやり残したことを片づけようとしていた。