それは一瞬であっただろうか。
　或いは、しばしの間そうしていたのか。
　何しろ現状に至るまでカサネの世界はまるでスパースロー映像のようだったので、時間にしてどれくらいだったのかさっぱり分からない。

　今、自分に何が起こったのか、脳みそが動いてなくて理解できていない気がする。
　止まっていた思考を何とか回して、現状把握を試みる。

　まず、今日もいつものように、あの人と待ち合わせた。
　この世界の情報交換という本来の目的は最早口実に近く、少し前からはカサネが一方的に想いを伝えてばかりいる。
　とはいえ、そう簡単に受け入れられるとは思っていない。
　年齢や性別やその他諸々…寧ろ、問題しかないのは重々承知だ。
　なにより、幾つもの守るべきものを抱えている人である。

　だから、一言もらえればそれでよかった。
　想うことをただ、「許す」と言ってくれれば、それだけで。
　それだけで…満足して引き下がるつもりだった。
　あの人が望むのであれば、もう姿を見せないのも覚悟の上だった。

　それなのに。

　幾度も、幾度も、幾度も。
　言葉を重ねては跳ね除けられて。
　さっきまで、けして崩れることのない壁がそこにはあったはずなのに…

　苦しげに眉を寄せた表情で寄越されたのは、望んでいたそれよりももっと深くにあるものだった。　
　けして、自分には向けられないはずの言葉だった。


（そんなはず、ない…）


　思わず否定の言葉が浮かんでしまったのも、無理からぬことだろう。
　あの人は、今まで一度たりともそういう気配を感じさせたりしなかったのだから。


（そんなはず…だって、そんなの…まるで…）


　一方通行だと思っていた。
　返されることがないと思っていたからこそ、口に出せた言葉もたくさんある。
　その前提は、カサネが勝手にそうだと思い込んでいただけだったなどと、いったい誰が気付くだろうか。

　いつもよりマフラーが緩んでいる。
　目の前の人に掴まれて引き寄せられたからだが…その距離は、未だかつてないほど近い。まさに“目の前”で。

　つと、指先で自分の唇に触れる。
　指先の感触は、先ほど触れた柔らかさとは全然違うものだ。
　視線を向けた先の人は、今まで見たこともない顔で額の鉢金を外している。

　あの一瞬（或いは、数秒かもしれない）、言葉の途中で口を塞がれて黙らされた。
　そしてまだ触れそうな距離のまま、この人は、何を自分に言った？――…

　膝から力が抜ける。
　至近距離で寄越された言葉がぐるぐると耳の奥で反響している。
　体中の血の流れが一気に速まった気がする。
　鼓動の響きが骨を伝うようだ。
　頭の中はぐちゃぐちゃで、どうしていいのか分からない。

　ただ、一つだけ確かなものがあった。
　溢れて止まらないそれが、よもや自分の身に起こるとは…





――玄守カサネは、嬉しくても涙が出るのだということを、生まれて初めて体験したのだった。