“それで良い”と、ただ一言。
他には何も求めず、ただそれだけを欲しているのだろう事は、分かっていた。
だが、返す事も叶わず本当にそれだけを与えた所で、後に傷痕以外の何が残ろう。
故に、己の胸の内に気付いたその後であろうとも。
顔を合わせる度、飽く事の無い堂々巡りが続いていたのだ――今までは。


その日も、いつもの様に待ち合わせ、いつもの繰り返しの果てに終わり、いつも通りに別れる筈だった。
幾度も告げられ、そして幾度も突っぱねてきたやり取りの筈、だったのだ。
しかしいつもとは違うその顔を見た刹那、不意を打たれた様に言葉が詰まった。


そう、それは――
傷を負う事さえも厭わないと、覚悟を決めた者の顔。
紫の目がひたと己を捕らえたまま、静謐な声で想いを告げてくる。



『……あんたが好きだよ、巳南さん』



何の飾り気も無いその言葉に、



――ああ、貫かれた。



そう感じた瞬間、残る壁はもはや張子と成り果てていた。



（…仮にも忍の頭領だった男が、これ程までに呆気無いものか）



思わず、苦い笑いがこみ上げそうになる。
それとも、只管に貫き通した方にこそ感嘆すべきなのだろうか。


とは言え、例え張子であろうとも、そう易々と取り払う訳にはいかなかった。相手を想うのならば、尚の事。
重い口をどうにか開き、言葉を絞り出す。



「…重々言ったが、『お前の為に命をやる』とは決して言えない。
事有れば、主とその血筋の為使う事に迷いも躊躇いも無い…俺の命とは、そういうものだ」



そうだ、そういうものでありながら。
この手を一度伸ばせば最後、自分は全てを奪ってしまう。

友人も。
家族も。
故郷も。
その未来すらも、何もかも。

何かを残して、などきっと出来はしない。無か、全てかのどちらかだけだ。
容易には捨て去れぬ迷いにきつく眉根が寄り、目を伏せる。



……その時、ふと。



懐かしい香り…薔薇と、微かな紫煙の香りを嗅いだ気がした。
それでも尚、その手が伸ばされたならば、それは掴んでも良いのだと。
…そして、離さないで、と。
見えない手が迷う背をそっと後押しする様な、そんな気配と共に。



「……分かってる」



そう応える声が、意識を引き戻す。
だから、自分が一番でなくていい。あんたは、あんたの好きなようにしたらいい、と。
身の震えも抱える脆さも乗り越えようと抗う、強い意志を秘めた声で。



それでも尚、その手が伸ばされたならば――　“その手”、ならば



カチリと、何処かで重い枷が外れる音がした。



途端、内から狂おしい程の情動が溢れ出す。
普段は奥底に深く沈めた炎の蛇が、解き放たれたかの様にざわめき青白い身を踊らせる。
されどそこに、堰き止める筈の強固な壁は既に無く…。
辛うじて残っていた張子など、炎の前には瞬く間に焼け落ちるのみ。



伏せた目が、静かに開く。



「――お前の人生に、傷しか残さないかもしれない」



腕を伸ばし、相手が何か言い掛けているのも構わず強引にマフラーを掴み、引き寄せる。
それは、それまで決して縮む事の無かった距離。
見開かれた紫眼を間近に見ながら、幾重の壁の崩れた向こう、境界線を踏み越えそして――



――触れた。



「…それでも、お前が良いと。そんな男が良いと言うのなら、――」



己が己である限り、この命はやれない。けれど…



（……赦されるのならば。お前が望み、赦す、と言ってくれるのならば）



赤のその奥、青白い炎を湛えた目で真っ直ぐ見つめ。
僅かに離れた唇の隙間、生涯唯一度であろう言葉を紡ぐ。






――此れより先。俺の情愛は全て、お前に。