彼も無事だったようだ。
大きな怪我のないのをさっと目で確かめて、とたんに肩の力が抜けるのがわかった。
彼に怪我のないのがうれしくて、浮き立つようにまとわりついて。
そして見つけた新しい道を見せたくて。
手を引き、案内しようとするのを留める彼の言葉に、さっきの己の言葉をすっかり忘れ去っていたのに気づいて赤面する。
そうだ、まだ先は長いかもしれない。
また、新たな者に襲い掛かられるかもしれない。
先のサバスの言葉も気になる。

「…そうね〜　ちょっとお休みしてからの方がいいわよね〜
いやだわ〜　わたし、エンバーさんがご無事で嬉しかったからかしら、
なんだか気持ちがこう、ぱぁぁってふわふわしちゃって…。
でも、そうよね〜休めるときに、休んでおかなくちゃ！」

えぇと、と頭の中で地図を広げる。
調理場は、たぶん。

「こっちね〜？」

てちてち。歩き始める。が、すぐに。
何か思い出したように足を止めて。
彼の隣に戻ると、当たり前のようにその手を取った。

「ね、エンバーさん、お茶菓子、何か召し上がりたいものはある〜？
おやつを作っておける場所なんてこの先あるかわからないから、
少し多めに作って持っていきたいし、大きなものでも大丈夫よ〜」

開けて良いかと問う言葉に頷きを返し、その手元へと視線を落とす。
揺れる尾羽が可愛らしい。現れたプレゼントに喜ぶ様子が見れれば、
己もまた口端を持ち上げて。

何やら笑われているような。

疑問符を浮かべて小首を傾げはしたものの、釣られるように緩く肩を揺らした。
甘いものおいしいものを見ている間は恥ずかしさも忘れて店を回れはするが、
ふと気付いた時に女性ばかり居ると、流石の男も多少は羞恥を覚えたりする―――
訳もなく、贈り物ですなどとのたまってリボンを巻いてもらったのだから、安定である。

何にせよ喜んでもらえたのなら良かった。
一目見て解る、彼女の羽の羽ばたく様を見遣りつつ。不意に差し出されたものに瞬いた。
さくらんぼ。可愛らしい形をしたそれを一瞥してから、流石に顎を引き。

僅かに身を屈め、ギザギザ歯の覗く口を開いてキャンディーを受け取った。
甘くて、良い香りがした。

肩を竦める。
少しずつピースが嵌まっていく記憶を探っても、件の人物の正体は知れない。
あの繰り返しから逃げ出すことばかりを考えていて、恐らくは気にもしなかった。
物語に戻って、会う事は出来るだろうか。剣がなくても怒りはしないだろうか。

ぐるりと、思考が巡る。登場人物たちが剣を欲しがる理由。
例えばそれが自分だとしたら。

そこまで言ってから、大袈裟に肩を竦め。ひらひらと手を振り。

そこは大丈夫だろうと、彼女の心配を緩和したくて根拠もないくせ言い切る。
万が一そうなっても、物語から逃げ出す術がある事はもう解ったのだ。
ならば如何とでもなると思ってしまうのは、流石に楽観的だろうか。
それでも今は前向きで居たかった。その力を誰でもない、彼女がくれたから。

今頃はもう、この地を彼らは脱出したのだろうか。
あひる族の姿を思い起こし、無機質に静まり返る城の廊下を一瞥してから彼女に向き直る。
随分と小さく見えるその姿を見下ろしてから、口端にいつもの笑みを浮かべて。

短くそうとだけ告げ、伸ばした手で彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
足を進めて調理場の中へと入り込む。美味しそうな素材の匂いが香ってくる。
聞こえた言葉にぱちりと瞬き、肩越しに振り返って笑い。

いつぞや、彼女に作ってもらったお菓子の名を上げる。
如何せん時間の掛かりそうなものをチョイスしてしまう辺りが、
空気読めてない感に溢れてはいたけれど。

紅茶は残っていただろうか。荷物を探りつつ、先の道を促した。

視線が、新王の気配を探ってあちらこちらと巡らされる。

歌うように呟いて、羽根ペンを持った右手を伸べる。
羽根ペンに宿った光のひとつが飛び出して、くるくると回り始めた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
回るたび、辺りの温度が下がっていく。
吐く息が白くなる。ちらちらと、白いものが落ちてくる。
星まで凍らせるような冷たい風が、サッと下から上へと吹き上げた。
目を開けると、いつから立っていたのだろう。
そこには、白い肌、赤い反物を携えた女がいた。

（鼻歌混じりにペンを作っている。綺麗な孔雀の羽根だ…）