その日の空は朝から分厚い雲に覆われ、日差しのない森の中は重く、冷たい空気に満ちていた。
　微かに香る雨の匂い。
　遠くで雷鳴が響いている。


「……この世界も、季節の変わり目は天気が荒れるのか？」

「そうね…今年は少し雨が多いけれど。貴方の世界もそうなの？」

「ああ…」


　朽葉と他愛もない会話を交わしながら、髪の上から項に触れる。
　引き攣れた皮膚。
　消えぬ傷痕。
　とうの昔に塞がったそれが、こんな日には目を覚ましたように鈍い痛みを訴えてくる。

　雨の日ならばその音を聞いて過ごすけれど、曇天の日はそうもいかない。
　森の中もいつもとは違い、生き物が雨の気配を察して息を潜めている。
　常なら煩い双頭の獣は、その属性のためか雨が苦手であるらしく、だんまりを決め込んでいる。
　他のエンブリオ達も最近体調を崩していた主を気遣ってか、静かだ。

　音が少ない。
　いつもならば望むところであるけれど、こんな日は些か気が重い。
　だからと言って、自分から言葉を紡ぐのも何だか億劫で。

　雷鳴が近付いてくる。
　ぽつり、ぽつりと雫が葉を打つ音が増えてくる。


「……降って来たか…」

「そっちに大きな樹があるわ。梢の下に入らせてもらいましょう」


　すい、と周囲を見回した朽葉が指差す方へと目をやれば、たしかに枝葉を広げた広葉樹があった。
　常緑の性質なのか、未だ瑞々しい緑を広げるその樹の下ならば、よほど土砂降りにでもならない限りはしのげるだろう。


「今日は大人しく雨宿りしておきなさいね」

「……分かってるよ」


　先週の大雨に打たれ、様々な要因が積み重なって転がるように体調を悪化させたカサネに対し、住処とベッドを提供していた朽葉の言葉には妙な迫力と重みがある。
　しばらくは大人しくしているしかないかと溜息を吐いた。

　しかし、先日起こった出来事を積極的に体験したいかと問われれば答えは否だ。
　何事もないのならば、それが一番いいに決まってる。
　だが、きっと望み薄なのだろうという予想も着いている。
　でなければ、深い場所にいるあの男が自分を巻き込むことなどなかったろうから。

　空気を震わせる音が天から響く。
　今日の雨はそこまで強くないのに、雷鳴が騒がしい。
　静まり返るよりかはいいだろうかと、立ったまま幹に背を預ければ、足下に侍っていた獣がピクリと耳を立てた。


「んあ？」

「聞こえたか、兄弟」

「んだねェ…なんだろ？」

「？　どうした？」

「んやァ、悲鳴？っぽい声が聞こえたような？？」

「うむ…ああ。またしたな」

「……朽葉、聞こえたか？」

「まだ私の耳に直接届く距離ではないわね…でも、精霊たちが騒いでいるわ」


　あちらの方、と朽葉が閉ざした視線を向けた方向に目をやる。
　カサネの耳にもまだ、獣の言う悲鳴らしい音は聞こえていなかった。
　けれど――…

　カッと雲の合間から光が走り、バリバリと何かを打ち破るような轟音が響き渡る。


「きゃー…っ！」


　遠くから、確かに声がした。
　高い音域のそれは若い女の悲鳴のようで。


「きゃーっ！きゃーっ！？」


　雷光が走り、空が轟く度に少しずつ距離が近付いてきている気がする。
　やがてはっきりと耳に届いた悲鳴。
　その方角から、雨粒とは異なる煌きが見え隠れし始めた。

　ふわりと、風が動いた気配。
　朽葉の他に、傍で草を食んでいたヴィントも顔を上げる。


「きゃーっ！お、お願いだからこっち来ないでっ！光らないで鳴らないでー!!」

「え、あ？……ちょ、おい嘘だろちょっと待て…！」


　木々の合間をすり抜けるように白く輝く翅を震わせ、長い金髪をなびかせて、その少女は文字通り“飛んで”来た。
　耳を両手で塞ぎ、空から目を背けるように下を向いて宙を跳ね飛ぶ彼女には、カサネの制止も耳に入らないようで。
　一直線に翔けた先にいたカサネは、しかし避けることもできず…
　輝く翅を持つ少女を止めるためのクッションにならざるを得なかった。





　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊





「ほんっとうにっ！ごめんなさいっ!!」

「いいよもう…そこまで雷が嫌いなんだったらしょうがない」


　衝突事故（？）から暫しの後、パニックに陥っていた少女を何とか宥めたカサネは、メイリーと名乗ったその少女と共に朽葉が樹の下に描いた方陣のようなものの中に腰を降ろしていた。
　この方陣は朽葉が“唄”によって構築したもので、少しの間なら方陣の外の音を遮断できるらしい。
　効果が限定される上に長い“唄”を必要とするので、戦闘のような状況には向かないけれど…と朽葉は肩を竦めていたが、今のような状況ならありがたい限りである。

　メイリーは現在、彼女には些か大きなミリタリーコートを頭から被り、隣に座るキラーウルフで暖を取っている。
　彼女が被るコートは、音だけでなく稲光にもビクリと肩を震わせる彼女を見かねて、カサネが着ていた物を被せたわけだが、恐縮しながらも素直に被っている所を見ると本気で雷が怖いらしい。


「どうせ俺たちも雨宿りしてた所だし、雷が治まるまでいればいいさ」

「うう…お世話になります」


　ぺこんと頭を下げる少女に気にするなと手を振って、ぼすりと背後のニグレド側の腹に背を預ける。
　怒涛のような勢いで事が起こったので疲れた。

　方陣の中は静かで、雨音すら聞こえない。
　けれど、背を預ける獣の呼吸と、弱りきった少女が自分のエンブリオに縋って愚痴る声、困ったような仕方ないというようなキラーウルフの宥める鼻鳴き…煩くはないのに、意外と音は多いものだ。


「あのっ、カサネさん？は、一人で一揆に参加しているの？」

「ん？……ああ。基本的には」


　気を紛らわせたいらしいメイリーがキラーウルフの首筋から顔を上げて寄越した問いに、そっけない返事を返す。
　しかしメイリーはまったく気にした様子もなく。


「寂しくない？」

「煩いのがいるからな。今日は雨で大人しいけど」

「アラひっどい！賑やかっていってヨー」


　ぽん、とソファー代わりの獣の首を叩けば、即座に抗議の声が上がる。


「そういうとこが煩いってんだよ」

「ぶー！ぶー！」


　カサネにとってはいつものやり取りだが、メイリーには新鮮に映ったらしい。
　くすくすと笑う表情は、いくらか明るくなったように見受けられた。


　雲の流れは速い。
　時折雲間を走る光の間隔も、長くなってきたかに思える。
　これならもう数時間で雨も止むだろうかと思った矢先、ヴィントがまたも頭をもたげてぴんと耳を立てた。
　不満げに首を振り、前足の蹄で地面を掻く仕草をする。


「……？どうしたの？」

「ああ、なんか音がするらしいから、ちょっと出てくる。アンタはここにいな」


　メイリーが頷くのを確認し、立ち上がる。
　地面に描かれた文字とも文様とも取れる不思議な模様をまたぐと、途端に音が溢れた。
　雨の音、梢の音、ヴィントの嘶きと……


「だああああああ！冗談じゃねえええ！」

「落ち着けって、おい、ジャック…！」

「これが落ち着いてらｒ…うわあ!!また光りやがった！クソ！何でこんな日に外になんか…!!ぎゃあああ!!!!」


　何だか涙が滲んでそうな声に、諌める声が追随する形で近付いてくる。
　空の嵐は過ぎ去りそうでも、地上はそうも行かないらしい…
　色んなものを諦めるように大きく一つ溜息を吐いて、カサネは枝葉の向こうの曇天を恨めしく見上げた








　雷嫌いの金髪二人が意気投合し、黒髪二人が巻き込まれる形でＰＴが結成されるのは、これより少し後のこと。