そのとき、アイヴォリーは調理をしていた。メイリーが持ち帰った大きな鹿の血抜きを終えてその巨体をようやく捌き、部位ごとに適当な大きさに切り分けるという一人でこなすには少々手間のかかる作業を終えたそれを、保存用に燻していたところだったのだ。石と泥で拵えた竈を使って中に煙を充満させ、それによって中に吊るした肉を燻すのだ。これで当面の食料に困ることもなくなる。この世界では食料の調達は比較的容易で飢えるということはないのだが、それでも自らの好みや体調で食事を選べるほど贅沢な場所でもない。そういう意味ではこうした肉類は貴重だった。
　一瞬、世界が色褪せて見えた。音が遠のき、耳鳴りがした。ただそれだけだった。意識が遠のく直前のようなそれに、アイヴォリーは無意識に身構えた。だが、その感覚はすぐに去り、アイヴォリーは安堵の吐息を漏らした。
　だが、過ぎ去った肉体的な感覚と入れ替わりでやってきたのは、言いようのない焦燥感だった。何かに追われるような、しなければならなかった何かを遣り残した、そんな理由のない焦り。アイヴォリーは無意識に小さく舌打ちした。

「ナンだ？」

　小さく呟いて、ようやく異変に気付く。風が死んでいた。それまで野営地に緩やかに流れていた風が。正確には、それをアイヴォリーが感じ取れなくなっていた。確かにそれまでと同じように、頬を撫でていくそれを感じることは出来る。だが、それはアイヴォリーがこれまで感じていた“風”ではなく、ただの空気の流れでしかなかった。何かを失った、という欠落感。大切な何かを、どこかに置き忘れてきてしまったという感覚。だが、それを取り戻しに行かなければならない彼を、追い立てられる獣の焦燥感が阻んでいた。
　身動きもままならない。硬直したままで、代わりにアイヴォリーは唸るように呟いた。

「クソッタレ……ナニをしヤガッた……ッ！」

　誰に対するものでもない、悪態に近い呻き。だが明確に、一人に対して発せられたそれは、確かに対象に捉えられた。
　目の前の光景が変わっていく。自分が構築した完璧な野営の見慣れた風景から、暗く沈んだ古びた部屋へと。ちらちらと目の端に虹色が踊る。呼び出されたことで、アイヴォリーは自分の疑念が確信へと変わり、それが真実であることを知った。


　幾度か目にしたことのあるその風景は、前回訪れたときと何一つ変わっていないように見えた。実際、時が止まったこの場所では、前回と何一つ違ってはいないのだ。部屋の中央に置かれた来客用の机と椅子、奥に背を向けて置かれた回転椅子。そして部屋の壁を埋め尽くす書棚。主が腰掛けていた椅子が回り、こちらへとその面を見せた。

「呼ばれると思っていたよ。それで、どういった用向きかな。」

　深く椅子に腰掛けたままの部屋の主は、部屋と同じく何一つ変わっていなかった。緋色の法衣、注意深く袖に隠された右手、目を隠すほどに伸びた黒髪、そしてその髪の向こうに微かに覗く真紅の瞳。

「今、オレにナニをしたッ！」

　アイヴォリーにしては珍しく、彼は前にいる男に対して吼えた。そこには理由もなく、具体的な内容もない。ただ確信だけを拠りどころに、言葉を叩きつけた。
　ふむ、と小さな鼻息とも頷きとも取れる、空気の漏れた音だけが返ってきた。もしくは、嘲笑が。

「僕は莫迦に逐一語る言葉を持たない。そんなものは労力の無駄だからだ。当然の物事を察することが出来ないのであれば、大人しく黙っていたまえ。
　その前提を理解出来たのであれば、少しばかり教えてあげよう。」

「オレに、ナニをしたッ！」

　アイヴォリーの様子とは対照的に、物憂げとしか形容出来ない調子で口を開いた男に対して、アイヴォリーは絶叫した。身体を沈め、いつでも飛び出せるように身構えて。普段使っていた長剣ではなく、両脚に佩いた短剣に手をかける。一跳びで詰める距離にも満たない男とのそれは、アイヴォリーにとって十分に必殺の間合いだった。それでも、この男を傷つけることが出来ないことをアイヴォリーは十分に知っていた。だが、それでも彼は飛びかかる構えを取った。

「君を、僅かに異なる世界へとずらした。其処は殆ど変わらない。同じ者たちが存在し、生活し、一揆と呼ばれた闘争を繰り広げている。そんな世界へと、君を移行した。」

　本題へと入らない前置きに、アイヴォリーがもう一度荒げた声を発しようとする。だが、ゆっくりと持ち上げられた男の左手で、それはやんわりと遮られた。

「具体的には、関係性を断ち切った。君のひとつのつながりを。」

　それだけで、アイヴォリーは理解した。理解してしまった。この道化師が語らないのは、それが当然だからだ。つまり、その関係性が何であるのかが。誰との、繋がりであるのかが。

「君の愛した小さな妖精はもういない。同じ姿、同じ名前のそれはいるかも知れないが、君にとってはもうそれは羽虫程度の存在でしかない。同じように、彼女にとっても。」

　つまり、それを断ち切った、そう緋色の魔術師は言ったのだ。

「君たちが紡いできた物語は残るだろう。何故ならば、それは関わった人々の心に微かにでも刻まれているからだ。だが、妖精の女王が与えた加護は君にはもうない。つながりが、断たれたのだから。」

　静かに、厳かに、運命調律者はそう宣言した。魔筆の恩恵をその身そのものに受けた、その口で。
　唇に生暖かいものを感じて、アイヴォリーはそれを腕で拭う。無造作に目をやったそれは、目の前の小さな男と同じ色をしていた。

「クソッタレッ！」

　鼻から滴った自らの血に引き金を引かれたように、アイヴォリーは短剣の柄を握って飛び出そうとした。自らの意志に従わず、手の中で収まらずに暴れる短剣に目をやる。握った柄が血まみれになっていた。弾けるように、右手が鮮血を噴き出していた。同様に、右脚がまさに今、弾けるのがアイヴォリーの目に入った。

「妖精の加護は、それが終わりを告げるときまで対象を不老不死の身に変える。そして、終わりが来たそのときに、代償を払わせる。
　そんなことは、今さら君に語るまでもないね。」

　血を噴き出す本人を目の前にして、男はそうつまらなさそうに呟いた。割れた容器に満たされた水が流れ出しているとでもいうように、当然のことが起こっている調子で。

「君は長く“生きすぎた”。そろそろお終いの時間だ。……まさか、末永く幸せに暮らしましたとさ、などという淡い期待を抱いていたのではないだろう？」

　今度は明らかに、侮蔑の表情こそ浮かべなかったものの、アイヴォリーにとっての主が、嘲笑とともにそう言った。それは彼にとって、神の言葉に等しかった。
　重い音とともに、左で何かが落ちた。視線をやったアイヴォリーの目に、見慣れた手甲が転がっているのが映る。ご丁寧にも、均整の取れた細い指が短剣を掴もうとする形のままで落ちた腕の先に付いているところまでが見て取れた。
　もう時間が残されていない。それを悟ったアイヴォリーが血で滑る床を蹴る。血を撒き散らした左脚が急に軽くなり、それをその場に置き去りにしたことがアイヴォリーにも理解出来た。この分ならば膝から下くらいだろう。そんなことを考える余裕さえあった。重心の崩れた自分の身体でも、アイヴォリーはそれを正確に制御し、残った右手で抜き放った短剣を打ち込むために、綺麗に男へと跳んでいた。
　アイヴォリーの目の前に、男の歪んで黒ずんだ右手指が突き出されていた。そんな指一本で、幾分減りはしたものの残ったアイヴォリーの重量を受け止めることなど出来ない。
　額に向けて突き出された指から掌ほどの距離で、アイヴォリーの身体が勢いを失って真下へと落下した。湿った音を立てて床に打ち付けられた自分のそれを聞いて、アイヴォリーはなぜか昨日解体した大きな鹿のことを思い出した。

「僕から創り出されたものが、僕を傷つけることはない。」

　相変わらず興味のなさそうな口調で呟くと、男は椅子から立ち上がってアイヴォリーへと一歩歩み寄る。身を屈め、彼を介抱するように覆い被さると、赤を纏った彼は地に伏した盗賊にそっと語りかける。

「心配しなくて良い。此処では少し先の未来を見せてあげただけだから。君は此処まで良く頑張った。僕の中で最も結果を残した。だから心配しなくても良いよ。お別れを告げる時間を、君にはあげる。」

　囁くように、歯を食いしばって自分を睨み付けるアイヴォリーに対し、彼が言った言葉は、それまでのどの言葉よりも優しく、柔らかかった。