朝は冷え切った土を蹴りながら目覚めた。壁に繋がれた鎖が戒めるように鳴った。朝？　日の昇る前の薄暗いひとときだった。日暮れとともに終えられる農場の哨戒は私のそれまで為してきた革命の苦労を思うならひどく短い。もう少し戦わせればいいものをと思うが規則はそうした時間外労働を嫌った。叛意を見せているといえ《世界の救援》に駆けつけた援軍ではあるからだろう。酷使は退けられていた。革命の攻勢は穏やかな銃後を許していた。

塗り固められた土の壁に映る私の影は拘束に歪められ人とも獣ともつかなかった。去り際の月光に影の輪郭はわずか滲んでいた。抑えがたい自らの荒れた息遣いに合わせて蠢くそれらの異容を眺めることにはそれなりの愉快もないことはなかった。影は狼を真似てみせもしたし身震いする鳥のようにも見えた。あるいは開いた褥瘡であるようにも思われた。見つめるうちに影は残像のような二重写しをまとい始め、ルヴナンの幻覚の訪いをため息した。けれど幻ではなかった。月明かりとは違うもうひとつの光源は私の自由の利かない左手にあった。浄らかな光がそこから糸のようにこぼれ、床に滴って白色の湖面をなそうとしていた。天使だった。名のしれない私のドロモマンヌ。ほどなくして床の湖面はつまみあげられるように一筋立ち上がり、背の高い女の姿を真似た立体をなした。光は凹凸の形状においてだけ人間の素振りをしながら、面持ちや肢体の表面は詳述を避けるようにただ光としてあった。光は生理の反射として涙を流させ、私は舌打ちをしながら目を逸らした。天使を見つめることはできなかった。それは太陽を見つめることに似ていた。

私は私のエンブリオに固有名をつけることを嫌いただ脱走兵 dromomanes とだけ呼び習わした。私の始まりのエンブリオである母の遺したエンジェルとて例外でなかった。もろもろの具象を名づけざるを得ないままに私たちは生きるが、名づけることにはいつの時もぬぐいがたい暴力性が間近にあった。おまえはしかじかのものであるという一言の檻、名前は最も原初的なひとつの呪いとして訪れる。私たちは社会の通例として呪いを継承する……姓として、誰かの子であることとして、誰かの夫であることとして。

父と別れることが――正確には契約結婚の契約破棄が、解約が――決まり、私が母と暮らすことを選んだあと、荷物の片づいた部屋に窓を拭き終えた母は、少し困ったように笑った。私らは姓がなくなってしまうんだよ、と。父との結婚を通して母はひとつの姓を得て、別離を通してそれを失った。レルヴォヴェールの伝統と違い移民である母の出身世界には姓がなかった。そうした分割世界は少なくはなかったが、レルヴォヴェールの行政が家族を監理する書面には必ず名と姓を書く欄があった。姓を同じくすることなしに誰かの子であるこはできなかった。少なくともあの世界では。だから新しい姓を考えなくちゃあね、と、笑う母と、その夜にあれこれを紙に書いて考えた。《オルガノール》と云う私の名と奇妙に響き合うその姓は、そうして私と母の作りなしたもののなかでもとりわけ失いがたいもののひとつになった。なにもかもの片づけられたその夜の部屋の中でただひとつ動かしきれずに残った調度、旧びたオルガンをたわむれに弾く母の姿がその名前の中にはくるまれている。Organort。北の器官。あるいは黒い器官。それとも夜のオルガン。黒 noir でも北 nord でもない nort の綴りは、死 mort と戯れ、あるいは誤り tort と戯れている。そしてまたレルヴォヴェールの北方に横たわる世界の切れ間の闇、《ノール》とその音は抱き合いながら少しずつすれ違っていた。オルガノール。私と母は名づけられることなしに、名乗りとして、その名を自ら引き受けた。その夜から私は自由を得たはずだった。重苦しい父の名を証文とともに焼き捨てて、歴史を受け継ぐことなく、軽佻でかろやかな死すべき跳躍を自らの生き方に変えたはずだった。……

天使のドロモマンヌは瞳のない顔をこちらに向けて、視線のない凝視を続けていた。それが語りかけることはなかった。なにかを示すことも。私のエンブリオはただ輝きながら身じろぎを繰り返す。胎児のように。生まれ出るいつかの約束されるはずもないのに。

オルガの言葉を聞きながら、わずかにかぶりを振る。
視線は曖昧に机の上に留めたまま。

僅かに自嘲するように微笑み。

恋人を語るその様子には、ふと瞬きをして。