ほの暗い研究棟、魔女によって灯された魔法の明かりの下で、古い本を広げる。
　頑丈な鉄の壁と薄暗い通路。どこまでも、どこまでも、同じ風景を繰り返すような廊下。
　同じ研究のための場所であっても、持ち主次第でこうも違うのだな、と思う。棲息するものは、どこかのくらがりから生まれたようなものたちばかり。けれど、それは彼らの所為ではないようだった。
　ずっと遠い昔。最初は、療養の為のはずであった部屋が、次第に改装されていったのを見たことがある。部屋の空気を入れ替える為の窓には格子が嵌められ、鉄で打ちつけられた。水差しの瓶は機材を置く為の皿にすがたを変えた。あたたかな毛布の代わりに、無数の羊皮紙が積み上げられた。
　部屋と同時に、自分の中に起こる変化があった。それは、時に夢であり、時に恐ろしく早く塞がる傷口であり、傷口の向こう側を見る自分の目玉であり、それらに対して一切の思考を止めようとする自分自身だった。

「どうしました」

　眠っていた筈の白虎が、いつのまにか、頭を擦り付けるようにしてじゃれついてきた。
　近頃は世話を任せきりにしていたが、今でも時折こうして甘えたがる様子を見せる。
　それが自分の願望である可能性は、先日、正面切って否定されたばかりであった。あの時の、理論による記述を粉砕された怒り――呆れ、あらゆる感情が入り混じった様子は、確かに、自分だけでは生まれなかったろうと思う。
　そして、そう思ってしまった理由も、今ならわかる。

「本は大事にして下さい」

　そう言って撫でてやると、白虎はわかっているとばかりに四角い目をきらめかせ、遠慮なく甘えてくる。
　冷ややかさと、生き物独特の暖かな気配。撫でてやった時の銀色の毛並みと、嬉しそうな目元。
　そのあたたかさに、救われていると感じる。特に、こうした場所においては。

　調査隊に所属する女性は、この場所を苦手だと言った。その全てがわかるわけではないが、感覚は理解出来る。
　ここには、ひとにあたたかさを与える要素が、まったくないのだ。ここに、それは必要ではないのだ。

　かの塔との最大の違いは、それだろう。あの場所は、人へのあたたかみもまた真実としてそこにあった。暮らしている者が、愛着を持つ者が、それぞれに違う理由でつくりあげた場所であったから、僅かなほつれがあったとしても、あの場所は鍵の塔として在り続け、自分の中であたたかな場所であるのだ。

　そういえば、と、思い出すことがある。先日、調査隊内で、同じく料理を担当する少女に、問われた件だ。
　記録のように記憶を読み上げる。『南棟のつきあたりにある部屋』、と、彼女は言った筈だ。それをもっとずっと前に、自分は聞いた。幽霊が出るという噂。一人だけの用務員。違う。もっと違う場所で。もっと違う誰かから。――メルンテーゼに来てからだ。

　一度、本を閉じる。そして、自分の記憶を、俯瞰するように、書物のように、手繰り寄せる。まだ周囲の景色になじみがない頃だ。既に調査隊の面々とは出会っていた。笑って、何かを話していた。その時、一度。

『そういえばさー皆、南館一番奥の研究室の部屋の主なんだけど……』
『やっぱりいいや！気にしないで！　あ、後ここに忘れてたお弁当、食べた物は速やかに名乗り出るように』

　――思い出す。一月より、すこし前。ほかならぬ彼女本人が、一度、それを聞いていた。
　あのとき、確か自分は答えた。辿り着いたことがないこと。知っていそうな人間のこと。これは真面目に話す気がない反応だったので流したこと。包み隠さず。今になってみると、じわりと後悔のようなものが浮かぶ。何を悔やむのか、はっきりしないのがもどかしい。

　ちょっと聞いてみただけだ、と、彼女は言った。今まで研究所の他の人に聞いても、答えがなかった、とも。
　何かが居る、と聞いて、嬉しそうにしていた。筈だ。あの頃に比べて、調査隊の面々の機嫌などに関しては、多少は気付くようになった。『南館一番奥の部屋』は、何かが特別なのだ。何かが居る、という。自分には辿り着けない部屋。

　かのひとに対し、魔女が時折「あの戯け」と漏らす気分は、こうしたものかもしれない。
　知ったところで、やはり辿り着けないのかもしれないが。
　なんとも言えない心地で居ると、再び頭を擦りつけられる。

「……ええと。怒ったりしていませんから」

　それを聞いた白虎が、安心していいか迷うようなそぶりを見せる。
　近頃は、仲良しが出来た所為か、盛大にはしゃぎすぎるようになった。結果、『おすわり』をくらうことも増えたためだろう。しつけはしっかりしよう、と、改めて心に誓うものの、今は実に聞き分けよく大人しくしている。
　この白虎も、本当にだめなことには、手を出さない。例えば、自分が手にするこの書物だ。これにじゃれつこうものなら、自分でも自分が何をするかわからない。そもそも、一度言い聞かせれば、大概のことは聞き分けるのだ。……遊びに熱中して忘れない限りは。

　書に集中出来ていない事に気付き、改めて白虎を撫でる。
　いま、草原に向かった面子とも、ここで合流することになっている。その時にでも、聞けばいいかもしれないが。

　――何を聞く。

　普通の質問では、『なんでもないよ』が関の山だ。
　そして困ったことに、自分は話術において、『出し抜く』ことは得手ではない。
　答えが見えない問いかけなら、尚更だ。

　……ひとり。ひとりだけ。今すぐに質問が出来て、何か大切なことを知っている人物に、心当たりはある。
　ただし、その人物は、決して口を割らないであろうことも、ほぼ確信している。

『そうだね、たまに思索してごらん。君が、一番戻りたいのはいつか。戻って、何をしたいのか』

　そんなことばを思い出す。いつもの部屋。いつも違うような書物。紅茶の香り。窓の外の白さ。

『いや、いま私に答える必要はないよ。その時の君が、何を考え何をしたいと思うのか。それを、君自身に問う為の問いだ』

　その問いかけを突き詰めれば、今の自分をかたちづくるという。
　理屈はわかる。『戻っても、どうしようもない』という答えが、今の自分なのだとすれば。

　書物の中の国にも、記憶の中の瞬間にも、戻れない。いつか、ここへ辿り着く。戻ってくる。

「ラズ坊や。まだ明かりが要るかえ？」
「……いえ。今日は、早めに休むことにします」
「そうか。では、少し絞っておこうかの」

　読むのを諦めて閉じた本を、固定しなおす。けしてなくしてはいけないもの。
　頷き、明かりを操る魔女。よく考えれば知っていないはずのない、けれどあの時、何もことばにしなかった――

　赤い目が、明かりの作るくらがりの奥に隠れる。

　問いかけは、何も浮かばなかった。

（手袋を着用する