暗い地下水路に足音は響かない。流れる水の音が一定に続くこの場では、思う以上に音がかき消される。一定のリズムが聞こえる場所は頭の中、もっと言えばこの身体だけだ。考えを纏めるにも丁度良い。
　どうせ話を進めるうちに、纏めなければならない事実は幾らでも出てくるのだろうから。

　不躾なほど唐突に口火を切る。残念ながら礼を重んじる気も、その必要もない。特にこの相手に対しては。

　こいつは気付いていない。その視線そのものが、例えば動物園の檻の中の生き物を眺めるような、本来あるべきでない理不尽を見過ごしていることに。
　その傲慢を突き付けてやる、と言えるほどの余裕は残念ながら今の僕には無い。そのための準備は何重にも要るのだから。例えばこの場面で、平静を保ちながら話し続けることもその一つ。

　はっきりと息を呑む音が聞こえた。同時に感じる一つは高揚。ついに一瞬なりともこの龍を上回ったと。至極簡単なブラフにここまで単純に引っ掛かるような奴であったとは予想外だけれど。
　そして感じるもう一つは、驚きだった。単純なものでなく、絶望交じりに胃の腑がずしりと重くなるような。
　こうまで揺れるということは、こいつは僕がメルンテーゼで『死んだ』ことを隠していたのだ。どうか知らぬようにと取り繕いながらか、気付くこともないだろうとたかをくくりながらかは、この反応だけでは判別できないけれど。
　確かに僕は死んでいたのだ。
　マーメイドの水流に呑まれた時、川にいた兵士の持つ剣に貫かれた時、アクアパレスで十数人の兵士に抵抗し続けた時。そのどの時のことなのかも分からない。もしかしたらそのすべてなのかもしれない。そうしてこいつの力でその死を乗り越えて、今この足で石床を踏んでいる。

　返答はなく、澄ます耳にはただ水音だけが聞こえる。驚愕が未だ響いているのか、それとも絶句しているのか。
　我ながらひどいと思えるレベルには割り切っていると思う。けれどまたそれくらいはあるのだとも思う。ただ生きていれば知ることのない異世界へ導かれたこと、この世界に居る間だけのものといえども一人で魔物と戦えるだけの力、そしてどれだけ無茶をしたところで死ぬことのない身体。
　それほどの常軌を逸した契約の対価としての、死と再生を繰り返す人間離れした肉体。妥当じゃあないか。

　押し殺したような声が問う。一度崩してしまえばこうも分かりやすい奴だったのかと驚く半面、なんだかひどく失望した。超然とした、そしていかにも人外然とした態度が見せかけであったことに、容易く人間の生死の境目を超えてしまう力の持ち主が、あまりにもそれと見合わない精神の持ち主であることに。
　漏れた嘆息はおそらく見咎められたろう。

　再び脳裏を過ぎるのは、他の参戦者たちと交わしてきた会話。

　何故その可能性に、僕自身が行き当たらなかったのか。あるいは幾度も行き当たったことを綺麗に忘れ去ってこいつとともに旅を続けていたのか。

　何故それ以外を知らないはずの自分の生きてきた世界のことを、はっきりと思い出すことができないのか。記憶にかかる靄が外よりもたらされたものであることを、疑う理由はない。
　しばらく押し黙った後に口を開いた龍の台詞には、

　謝罪もなければ、先までのように不意を突かれたという驚きもない。否、それが向かう方向を変えただけかも知れない。
　その語調からは、確かな感嘆が読み取れた。常ならば何よりも嬉しみを覚えるそれに、今は苛立ちしか感じない。

　上げた声は思った以上に荒かった。まくし立てるように、次を問う。

　そう問えば、龍は少しだけ口端を持ち上げて笑った。嘲笑ったか。そう睨む僕へかかる声は、優しげな猫撫で声だ。

　そう言うと龍はついと視線を逸らし、その目を地下水路の奥の暗闇へ向けた。横から見るそれは、不思議と闇以上の暗さを保っているように感じられた。その眼が見ているのは、きっと今ではない。

　零れ落ちるような呟きは、水音に紛れて聞こえない。澄ました耳に飛び込んできた単語は。

　呆然とする顔も目に入らない様子で、淡々と龍は続ける。

　振り向いた首の先、どこまでも感情のない目がこちらを見ている。
　おまえの目は節穴なんじゃないかとか、嘘だろうとか、言いたいことは様々あったけれど。それらを集約するとたった一つにまとめられたし、第一まとまる前に既に口からその言葉は漏れ出ていた。

昏い展望、未来への不安
そんなものを跳ね除けて進めると思ってたんだけどな