驚いた、というよりは半ば諦めて動かないのを良いことに、子供は近付いて、手を取りました。
　けれどその子供の顔は、やっぱりどう見ても、無邪気というよりは、切羽詰まった、泣きそうな顔です。
「本当に、龍様なんだよね…？　お爺ちゃんが見た龍様だよね？」
　必死に問い掛けてきます。
　本当に、本当に龍なのか。確かめようとしていました。

　りゅうはなだめて話を聞いて、ようやく少し理解しました。
　どうやらもう、５０年以上は経っていて、あの時の子供はもう大人に、そして老人になってしまったこと。
　いつか見た白く、綺麗なりゅうのことをずっと覚えていて、子供に、孫に話し伝えていたこと。
　怯えさせてしまったことを謝りたかったと言っていたこと。
　そして、もう、森の奥に歩くことの出来ない体に老いてしまった今、――この森をそっとしておいてあげたいと、そう願っていること。
「………わかんないよ」
「お爺ちゃんもね、子供の頃から『龍』の噂は知ってたんだって。『龍』は、人間をぱくっと一呑みにしちゃう悪魔の使い。だから人間の敵、色んな大人が『龍』を目の敵にしてたって」
「………」
「でも、色んな酷い事をするのは間違いじゃないか。そもそも龍が人間を食べているのも本当かどうかも解らないし、って。だから君に会いにいったんだって」
　りゅうは何も言い返せません。
　だって、りゅうは実際に、人を『間引き』する存在なのですから。
　人間にとってそれは『悪魔』と認識して当然でしょうし、『敵』として討伐されるのも『おつとめ』の内でした。
　ただ、――嫌なだけ。
「ね、ね。龍は君一人なの？　お爺ちゃん、思ってた龍と全然違ったって言ってたよ」
「……今は、一人だよ。ねえ、それより、……お爺ちゃん、まだ、いきてるの？」
　矢継ぎ早に質問してくる子供に、けれど、りゅうはあの時会った『子供』が気になってしまいました。
　いきものは、生まれて、死んで、またその命を流転させる。
　この世界はそうやって生命を循環させていて、りゅうはその「おやくめ」を担っています。
　だから、あの時の子供がもし死んでしまっていても、魂自体は消える訳では無いから。
　哀しむことでは無いけれど。
　思い出は全て『リセット』されてしまうから、その人であってその人では無い。
　そうなる前に、もう一度、と。りゅうは思ったのでした。
　けれど、子供はとても暗い顔をして俯いてしまいました。
　どうしたの、と、りゅうが聞いても中々答えてくれません。
　りゅうは、困りました。
　困って困って、その子供を見ると、泣きそうでいて、泣くのを我慢しているようです。
　何故だろう。
　わからないからりゅうは、その子供の頭をぽんぽんと撫でてあげました。
　人間はよくこういう事をしていて、こういう事をすれば嬉しそうな顔をするから。
　すると、その温かな手に触れて、子供はいよいよ堰を切ったように泣き出してしまいました。
　そして、どん、と、りゅうを突き飛ばしたのです。
　りゅうは訳が分かりません。
　困惑しているりゅうに、子供は大きな声で泣きました。

　確かにお爺ちゃんはりゅうに会った。
　けど、お前が逃げたから、お爺ちゃんはりゅうを忘れられなくなった。
　森を護るなんて言って、変人扱いもされた。
　でも、りゅうを護る為にその事は家族にしか打ち明けなかった。
　けれど、りゅうは全然会いに来なかった。もう、会ってくれなかった。
　それでもお爺ちゃんは待ち続けた。
　待って、待って、そしたら今度は領主様が変わって、村のありさまが変わった。
　森を切れと領主様が言う。
　けれどお爺ちゃんは嫌だという。絶対に切らないという。
　そこでようやく打ち明けた――『ここには龍の神様が居るから』と。

　そしたら、ほら、思った通りだ。
　お爺ちゃんは捕らわれてしまった。
　だって、龍は『悪魔の使い』だから。
　そんな悪魔に絆されて、領主様に刃向かうなんて、なんてばかなことだろう。
　村の人達も、変わり者のお爺さんなんてもう見ない振り。助けてくれない。
　自分達だって、そうだ。
　家族は皆、肩身狭く生きるしかなかった。
　でも、領主様は『おやさしい』人だから、お爺さんがうんと頷くまで木を切らないと言ってきた。
　でも、お爺さんは絶対に頷かなかった。
　そうしている内に、お爺さんは弱っていった。
　弱って、弱って、それでも頷かないお爺さんに、領主様はついに痺れを切らして、こう言った。
　今日、ついに、その言葉が真実かどうか確かめてやろうじゃ無いか、と。
　本当に龍がいるなら森は護ってやろう。
　でも、それが嘘ならば、嘘吐きで、悪魔に絆されたお爺さんは、自分の手で、自分と森を燃やすように、と。

「え、今日……今？」
「今だよ！お爺ちゃんは嫌だって、夕方まで時間をもらって！　でも、お爺ちゃんはもう歩けないから、だから僕が龍様を探しに来たんだ！」
「……行くの？　みせものに、なるの？」
「だって！　夕方までに見つからなかったらお爺ちゃんは今度こそ『嘘吐き』だってころされちゃう…森と一緒に焼かれちゃう！！」
「………」
　それは、龍に関係の無いはなしです。
　大地は天にとって大事なものだけど、人間のすることに干渉は出来ません。
　だから、燃やすならそれを見ているだけです。
　お爺さんの命だって、そうです。
　きっとまた生まれ変わってくるでしょう。
　なにも、哀しいことはありません。
　でも――その子供はぐいぐいと手を引っ張ります。
「はやく、はやく！！」
「なんで？」
「なんでって……」
　りゅうはわかりません。
　何故そんなに必死なのか。
「……お爺ちゃん、死んじゃう！！　僕にとっては大事な家族だもん…変人って言われても、お爺ちゃんのせいでお母さんまで苦労してる。でも、…大好きなお爺ちゃんだもん！！　龍様！」
　龍は肩をがしっと掴まれました。
「龍様だって、そうだよ。お爺ちゃんはずっと待ってたよ。なんでずっとお爺ちゃんの前に現れてくれなかったんだよ！！」
　それこそ、人の勝手。
　けれど、龍は、ぽつりと呟きました。
「……お爺さんが、この森を守っていた」
「…龍様？」
「……キーの、ために？」
「……龍……」
「なら、ならば。その恩義は、――」
「………り、……」


　――我ら龍は、対価を、返さねば、なるまいか――


　龍の目が煌めきました。
　龍は、空を、飛びました。

　今正に無理矢理火を放せられようとしていた老人の目の前に舞い降りたのは、小さな龍ではありませんでした。
　翼と体毛を持った、長い体の白き龍。
　誰もが恐れ、道を空けました。
　龍はゆっくりと老人に歩いて行きます。
　老人は龍に手を伸ばしました。
　龍は何も言いませんでした。
　龍は老人を助けに来た訳では在りません。
　けれど、静かに、それでいて誰をもに牙を向けるでも無い龍は――とても、『悪魔』には見えなかったのでしょう。
　誰もがその姿に畏怖しながら、距離を許される老人に敬意を持ったのは、言うまでもありません。
　もう、老人が殺される事は無いでしょう。
　ならば何故龍が来たのか、それは、――龍は恩義を忘れないいきものだからです。
　渡されたのなら渡されただけ、龍は等価を返すのです。
　だから、龍は助けに来たのでは無く、森を護り続けた対価に老人の願いを叶えたのでした。
　最後の、最後に、この姿を見せること。
　そうして龍が老人に触れると、老人の命は、ふ、と消えてしまいました。

　それが、老人の寿命だったのか、龍と関わってしまった罰なのかは、誰も知りません。
　けれど、すぐに飛び去ってしまった龍と、心優しき老人の意を汲んで、その森はそれからもずっと護られていきました。
　森を切ろう、などという人はもういません。
　森を護ろうといった者を笑う人ももういません。

　その事は、もう、龍は知りません。
　けれど、人に守られ続けたその森は、人に決して荒らされることはなく、時々白い龍が遊びに来ると噂を呼びました。
　その森はいつしかこう呼ばれるようになりました。

　『龍の森』、と。

無邪気に喜ぶ相手を見て、少女はふにゃりと笑う。
しかし突然大きな声を出した相手にびくりと肩を震わせ、尻尾はぼうぼうに逆立った。
少女は目を見開き、どくどくと音を立てる胸に手を当て、

尻尾の毛は落ち着いてきたが、落ち着かないようにゆらゆらと揺れている。
緩む口元に手を当て、動揺を隠すように目をそっと逸らした。

逸らしていた目線を合わせ、口を開く。

迷うように目を逸らし、また視線を合わせる。