Fewliw Simmelto...
[ むかしばなしをしよう ]


　童女が童女のままだった頃の話だ。
　しかし男が童だった頃の話でもある。


　乳白色の壁も、白亜のような柱も、まるで硝子のような滑らかな面が縁取るのは、長い長い廊下。
　敷かれた毛足の長い絨毯は小さな足音くらいは吸収してしまうが、彼女は衣服の至る所に小さな硝子珠を付けているためか、一歩歩くごとにしゃらしゃらと涼しげな音が鳴った。
　廊下の長さに見合うだけの邸には、明り取りの窓もまた多く取り付けられているが、今少女が歩くのはその邸のほぼ中心を横断する廊下であり、左右の壁には扉と、柔らかな光を投げかけるランプが並んでいる。
　電灯とは程遠い光源は、その数からして蝋燭でもない筈だが、時折ちらちらと揺れてはまるいランプの影をよりまろく映し出した。
　シェードは陶器というよりはこれまた硝子に近く、丹念に擦ったような表面はどこか卵を想わせる。
　まろい卵の表面には影絵のように繊細な紋様が刻まれており、揺れる明かりと相俟って、廊下から無機質さを取り払っていた。

　実のところ、少女が今まで通り過ぎてきたいくつもの扉の向こうも、そしてこれから突き当りまで通り過ぎることになるいくつかの扉の向こうも、特に目的を持たない空き部屋だ。
　入った空き巣が困るような有様だが、どうやら地元ではここは怪異譚の舞台として語られているらしく、好き好んで入り込む輩もそうそういない。
　たとえ物好きが肝試しにやって来たところで、まず邸を見つけることができないだろう。
　ここは、『そういうふうに』なっている。
　『そういうふうに』、紅い髪をした少年が、理を織って線を引いた。
　たまたま、運よく、或いは不運にも、線の抜け目を通る者もいるにはいるが、抜けられる者なら玄関に灯りの点いている邸を見て、物盗りに入ろうだとか肝試しに突撃しようだとか考えることは今までなかった。

　ここは、『そういうふうに』なっている。

　そんな邸を歩く少女は当然のようにここの住人であり、当然のように一般人であるわけもなかった。
　そんな少女の耳に、やや離れたところから呼びかける声が聴こえてきて、彼女は素直にその場に足を止めて振り返った。
　視線の先では、淡い金の髪を長く伸ばした幼い少女が、懸命に手を振って駆けて来ている。

「レィア！　あのね、あの…ふきゅっ」
「ああああるじ！？」

　ぱてぱてと手を振って駆け寄るフィンが途中で転倒したのを見て、朱色の髪をした少女は表情が乏しいながらもぎょっとした。
　実はこの邸、廊下にもふかふか絨毯を敷いている理由と言うのが、よく転ぶフィンのためだったりするのだが、そのふわふわ加減で元から危ういフィンの足取りが輪をかけてふわふわしてしまうと言う哀しいデメリットもあった。

「大丈夫ですか、主！」
「うん、ふかふかー」
「そうですか」

　床に転んだままでやや的外れな感想を述べるフィンに、朱色の少女は今度はまるで動じることなく頷いた。
　のんびり立ち上がるフィンに手を貸しつつ、少女はやはり表情を変えずに口を開く。

「主、私に用ですか」
「うん。あのね、あのね、ケィノがね」
「あの定命の人間ですか」
「？　てい…め？」
「寿命がある存在と言うことです」
「んー…と？」

　よくわからないような顔をしてフィンは首を傾げるが、一度、二度と瞬きをして、諦めたのか頭を真っ直ぐに戻す。
　或いは、途中で何を疑問に思っていたのか忘れてしまったのかもしれない。
　この尋常でないぼんやりっぷりから、フィンはよく外出禁止処分を受けているのだが、改善の兆しは全くなかった。
　ともあれ、フィンは本題を話すべく、「あのねあのね」ともう一度呼びかけて、

「えとね、ケィノがね」
「はい」
「おなかすいた、ていうの。だからね、フィンのおやつあげたんだけどね、おなかすいたままなんだって。
　どうしよう…レィアは、なにたべたら、おなかいっぱいになれる…？」

　話している内に心配になってきたのか、フィンはしゅんと肩を落とす。
　落ち着かないのか、両手の指を絡めたり、解いたり。
　心配していると、ふと、紅い髪をした少年がまるで冗談を口にするような軽さで言っていた言葉を思い出した。

「しゅ、しゅとが、いってたんだけど…けぃの、おなかがすくと、うごかなくなって、きえちゃう、て…ほんと…？
　ど、どうしよう…けぃの、きえちゃうの…？　ふぃ、ふぃん、きえるの、やなの…っ」

　話している内に不安が増してか、フィンは大きな瞳に涙を浮かべて、えうえうと声を上擦らせた。
　それを見て、表情は変わらないまでも、朱色の少女もやや狼狽した気配を見せる。

「いえ、空腹だと自分で主張できる状態なら、動かなくなったり消えたりはしないでしょう。
　主が望むなら魚くらい私が獲って来ます」
「お、おさかななら、おなかすいたの、なおる…？」
「まずは食べさせましょう。足りなかったらまた獲って来ますし、魚以外を欲しがる場合は黯いのを呼びましょう」

　などと、フィンの両肩を痛くないように軽く掴んで説得しようとしたところで、彼女は鋭く金の瞳を背後へと向けた。

「黯いの」
「おや、如何なさいましたか、殷瑩（アンエイ）？　……フィン様に何か？」

　足音もなく現れたのは、背の高い黒髪の男だ。頭に載せた帽子のせいで、さらに高い印象がある。
　いつもながら表情を変えない少女と、その前で泣きそうな顔をしているフィンを見て、彼は僅かに首を傾げてみせる。
　ここで、泣かせているのか、と問わないくらいには、黒い男は朱色の少女のことをよく知っている。
　フィンからはレィアと呼ばれ、しかし男からは殷瑩と呼ばれた少女は、一貫しない呼び名をまるで気にする様子もなく、淡々と現状を述べた。

「人の仔が空腹だと言っているそうです。とりあえず魚を食べさせてみようかと」
「……念のため、ですが。まさか近隣の川から捕った魚を、生のままで――などということはなさいませんよね？」
「何が問題なんですか」
「……」

　少女は一切の表情を変えずに言い放ち、逆に男は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「以前にも、わたくしめは同じことを申し上げた筈ですが――川魚を生のまま召し上がるのは、推奨されるべき行為では御座いません。まして今回はまだ年端も行かぬ人の仔、充分に加熱してお出しするべきで御座いましょう」

　男の言葉に、少女はいくらか瞳に剣呑な光を宿した。
　身長差をものともせず、真っ向から鋭い金の眼で、同じ色をした男の眼を見据える。

「人間は食物から栄養素を摂るのでしょう。加熱したら栄養が減ると聴いたことがありますよ。
　生のまま食べさせた方が身体が丈夫になる筈です」
「ええ、加熱により栄養が減る場合も確かに存在いたします。が、それが全てでは御座いません。
　そもそもの前提として、人間の消化器官というものは、摂取した全ての栄養素を吸収できるほど優れている訳では御座いません。
　油脂と共に炒めることによって栄養の吸収を促進する場合も多いことを、学習なさってくださいませ。
　何より、川魚は海のものと比べて格段に寄生虫の類を保有している可能性が高いのですよ。
　充分に加熱調理しなくては、人の仔にとっては非常な危険を伴うと申し上げるより御座いません」
「貴方の話は回りくどい。あれは人間です、身体は握れば潰れるほど脆い。
　少しは鍛えなくてはならないとは思わないのですか」
「ええ、仰るとおりで御座います。ですが彼は人間である以上、貴女ほど強い肉体を得ることは不可能なのですよ。
　わたくしは、甘やかせと申しているのでは御座いません。限度を越えた負荷は無意味であるどころか、毒にしかならぬと申し上げているのです」

　生派VS調理派で火花を散らす中、フィンだけは話がわかっていない顔で、ぽやーんと二人のやり取りを眺めている。
　見る者が見れば、非常に緊迫した一触即発の様相にも見えるかもしれないが、会話の内容はどうしようもなく軽かった。
　やがて会話の成り行きに焦れたのは朱色の少女の方で、ガンッ、と右手で壁を殴りつけ、きっと男を睨むように見た。
　硝子質の柱にも壁にも、巨大な蜘蛛の巣のように亀裂が入るが、少女の拳は傷つくどころか赤みを帯びてすらいない。
　睨まれた男もまた、壁を粉砕せんばかりの音と衝撃を物ともせず、表情どころか眉一つ動かさなかった。

「私の身体は人の仔のように脆弱ではありません。私の魚まで天麩羅にしないでください！」
「夕食は刺身が良いと仰ったご本人が、傷みやすい魚を昼前に台所に置き去りにしたまま外出なさらなければ、貴女の召し上がる分くらいはご希望に沿いたいと思っておりますがね」
「……保冷室に突っ込んだら、怒ったじゃないですか」
「野菜の上から魚の頭を突っ込んだ上、尾を扉に挟んだまま放置なさらなければ、何の問題も御座いませんでしたよ」

　すぱんすぱんと切り返されれば、まあ本人もこれでいいのかと一度首を傾げた記憶があることも手伝って、朱色の少女は一度口をへの字に結び。

「では次からは入るサイズに斬ります」
「……魚用の箱は保冷室に用意致しますので、せめて血抜きをなさってからお使い下さいませ」
「箱ですか。それならサイズの目安にもなりますね。感謝します」
「いえ。ご理解いただけて何より。ありがとうございます」

　途中の殺気渦巻くやり取りも、互いの要求が通った後では見る影もない。
　何となく最後までぽやんと眺めていたフィンを振り返り、黒い男は帽子を脱いでは恭しく頭を下げた。

「フィン様、申し訳御座いません。ターケィノ様の件は、わたくしめの配慮が不足しておりました。
　フィン様がお召し上がりになるものの多くは、人の身に適したものでは御座いません。
　すぐにターケィノ様のお食事をお持ちいたしますので、ご一緒にお待ちいただけますか？」

　一回、二回、と瞬きをしてから、ようやく言われた言葉を飲み込んだのか、フィンはこくりと頷いてみせる。

「では、わたくしめはこの場にて失礼させていただきます。
　フィン様のおやつも、改めてお持ちいたしますね」
「わーい！　ありがとー、ネィロっ」

　深々と一礼した男が、壁に穿たれた蜘蛛の巣を撫でると、テープを巻き戻すようにして壁は再び滑らかな面を取り戻した。
　今までのやり取りのどれをも当たり前のように見ていたフィンは、お腹を空かせた少年の食事と、ついでに彼にあげたおやつもやって来ることに嬉しそうに笑った。
　そうしてにこにこしていると、朱色の少女も無表情を僅かに緩める。

「では、主。私も人の仔が丈夫に育つように、活きの良い魚でも獲って来ます。
　――強く育つには、熊でも獲って来た方がいいですかね？」
「くまさん…つめたいおへやに、はいるかな…？」
「魚にします。」

　物理的に入らなかったらまた怒られる展開になることを読んで、朱色の少女は潔く即決した。
　彼女の場合、小熊などと言わず大の大人を優に超えるような大熊を仕留めて帰りかねないので、ちょっと大き目の保冷室ではまず間違いなくはみ出す。
　魚用の箱もまた、入りきらない未来しか見えない。

「うん！　おはなし、きいてくれてありがとー」

　途中で何やら紆余曲折を経た気もするが、心配事が無事に解決する気配を感じて、フィンはいつもどおりの笑顔で、自分が呼び止めた少女へと礼を言う。
　朱色の少女は相変わらず表情は変えず、しかし瞑目して右手を胸に当て、傅くように頭を下げることで応えた。

「主の為ならば。私はあまり定命の人間には詳しくないですが、力の限り主の望みを叶えます」
「えへへ、ありがとうね、レィアっ」

　ふにゃっと笑って、てこてことお腹を空かせた少年が待っているであろう食堂に向かって駆けて行くフィンの背中を見送って、朱色の少女もまた外に出るべく玄関に向かって踵を返し、

「ふきゅっ」
「あるじ！？」

　背後から最近聴いたことのあるような情けない悲鳴と、ぽてんと何かが転がる音が聴こえて、慌てて進路を戻して駆け出した。








　フィンが「定命の人間」なんて単語を知っていたり、シルフラに甲斐甲斐しく尽くされても萎縮もせずに「ありがとー」なんて言ったりする理由、背景のお話。

横で正しく持ち直すまでレクチャーする