「な、なんだよそれ！！」

　わずかに隙間を残して開かれたドアの隙間から、まだ声変わりもしていない男児の怒声が響く。
　そっと覗き込めば、昼間だというのに暗い部屋の奥に声の主の男児ともう一人、レザーチェアに腰掛けた男性が見えるだろう。

「父さんは誰よりも強くなる為に剣道しているんじゃないの！？」
「剣道にそれを求めてはいない」
「だって、俺に強くなれって剣道を勧めたのは父さんじゃないか！」

　怒気で荒げる幼い声とは対照的に、男性の声は低く静かで淡々とした響きがある。

「剣道で強くなれるから俺に剣道を勧めたんだろう！？そう言った父さんが剣道では強くなれないとかいうのはおかしいじゃないか！」
「落ち着きなさい」
「そんなのおかしい！絶対おかしい！！」
「じゃぁなんで、なんで父さんはそんなに強いんだよ！！道場の誰だって父さんには勝てないって皆が言っていた！！」
「一番強い父さんが剣道を否定したら、もうどうしようもないじゃないか！！！」

　最後の言葉が出る頃にはその怒声に悲鳴が交じり、男児の目元も赤くなっていた。
　まさかこんな言葉が出てくるとは。
　人のいる時間に道場に現れない父をなんとかして日の昇っている時間の道場に連れ込もうと、「腕が落ちて負けちゃうよ」と軽く挑発をしただけなのに。
　どうして、よりによって誰よりも強いと信じている父が「勝ち負けには興味ない」と、暗に「負けてもいい」という言葉を吐くのか。

「暁人、落ち着きなさい」

　今にも地団駄を踏みそうな男児を前にしても、父と呼ばれた人物は動揺ひとつなく。悠然と椅子に腰掛け男児を見下ろす様は、どれだけ強い力で押しても何の変化も見せない大神殿か何かを中央でずっしりと支える大きな柱のように思えた。

「お前は大きな思い違いをしている」

　父親は折りたたみ椅子の方をちらりと見て、座りなさいと促す。欠片も納得していない男児は抗議のつもりでそれを無言で拒否した。そんな男児を見て、父親は小さく息を吐く。それ以上は強く椅子を勧めずに自身はゆっくり腰掛けなおし、小さく一口コーヒーを飲んだ。

「剣道で人は強くなれる。それは俺も同意見だ。だからお前に剣道を勧めた」
「だが、剣道の修練を積めば人は最強になれる、とは限らない」
「剣道は最強の武器ではないし、人を最強にするオプションでもない」

　淡々とした言葉の意味が、頭を沸騰させている男児の耳にどれだけ響くだろうか。

「暁人、お前はなぜ剣道を始めた？」
「それはもちろん、強くなる為に！！」
「強くなって、どうするんだ」
「強くなれば、母さんや杏を守れる！！」
「お前は、守る力、それを求めたのだな」
「そうだよ！父さんだって言ったじゃないか！忙しい父さんの代わりに家族を守れるように強くなれって！！」
「であれば、要するに守ることができればいいのだろう。そこで剣道に固執する理由がどこにある？」
「ッ！！」

　どうしてだ。どうして剣を握れば誰よりも強い人物である父がここまで剣道を蔑ろにする！？こんなの冒涜じゃないか。道場で頑張っている皆を冒涜している！剣道を冒涜している！！

「……そうか、それが父さんの考えなんだね」
「……」
「分かったよ。父さんは剣道を信じられなかったんだ。心が弱かったんだね」

　男児は剣道が大好きだった。だから、このような結論しか出せなかった。

「父さんのことはすごいと思う。俺たちが生まれる前に五段取ったって聞いたときにはすごくかっこいいって思った」
「でもさ、剣道を信じられなかったんだよね」
「大丈夫、俺がやってみせるよ。父さんにはできなかった、剣道を極めるってことをさ！」

　父親が呼び止める間も許さず、男児は書斎から飛び出していった。
　駆け足で誰かが外出していく音を最後に、部屋は元の静謐を取り戻す。最近長男の跳ね返りが増えてきたことを喜ぶべきか部屋主が悩んでいたところに、別の来客が訪れた。

「おとうさん……今、いい？あのね、参観日と、スケートの大会のこと、なんだけど……」

　長男より僅かに多く背が伸びてきている長女が、ドアの隙間から小動物のようにおそるおそる覗き込んできている。
　そういえば昨夜、妻から予定の確認を頼まれていたのだった。手帳が芳しくない結果を示した。
　どうしたものかと口に含んだコーヒーはいつもより苦く、部屋主は小さく息を吐いた。

そう言うと、帽子を取った。

微妙にアキトのほうを見ているようで見ていない。

　

色々と思うところがあるらしい。

　

目を閉じ、呼吸を調えて神経を集中させる。
早口に異国の歌のような言葉を唱え始め。

ふわ、と風が彼女の周りにまとわりついた。
大鍋が魔女の前に立った。