それは昨日から、翌日の話になる。
攻城戦の終了後――帰路へは向かわず、社長は人の気配の少ない森の中を進む。


周囲から人の気配がなくなり、陽の光がうっすらとしか差し込まない森の奥。
そこで社長は静かに手を2回叩く――エンブリオを呼び出すときの合図だ。


間もなく、空間に魔力の煙のようなものと現れる。

彼は社長の右腕とも言うべきエンブリオ。
また、社長が一番最初に契約した"記憶"があるエンブリオでもある。

まるでの時が止まったかのように、エンブリオは表情を固める。

……しばしの沈黙の後に、

エンブリオには笑顔が浮かんでいた。

言葉とは裏腹に、態度には悪びれる様子は一切感じられない、

珍しく、興奮気味ではあるようだが、それ以外はまったくいつものフェアリーくんだった。

まるで飼い犬が、別の散歩コースに行きたがるのに、付き合ってあげるとでも言うような、
日常の中の本の些細な変化とでも言うように。



社長の日記30日目



社長は前日、このような予想を建てた。「自分はフェアリーくんによって異世界に召喚され、その世界が終わるたびに記憶を消され、そしてまた別の世界へ送られているのではないか」と。

この推測は正解であり、彼は9年もの時間を、記憶の認識から失っていた。
社長がメルンテーゼに来た時に感じた「どこか記憶の連続性が欠けている気配」の正体である。

心を読んだたのか、はたまた偶然にタイミングが一致しただけなのか。


あまりにもあっさり喋ってくれるため、逆に作り話ではないかと思えた。
しかし、嘘とは弱者が使うものである。絶対的の強者ならば他人を欺く必要はない。

フェアリーくんにとってわしとは、掌の上で踊っているコマに過ぎず、
またいつでも切り捨てられる者なのだろう。

……しかし37歳か。アラフォーのニート。いよいよ笑えなくなってきたな。

そう、ここまでは予想できた範囲である。改めて言われると衝撃は大きかったが。

問題はこの先にある。

ただのオッサンに過ぎないわしに、いくつもの世界を歩かせ、そして記憶を消す。
その手間に何の意味があるのだろうか？ それが分からなかった。

本当に心の底から楽しいとでも言うように、フェアリーくんはにこりと微笑んだ。
その顔に、苛立ちは覚えなかった。いや、覚える必要がなかったのだ。なぜならば――

楽しそうに「くすくす」と笑う。

そこまで一方的に喋り続けていたエンブリオは、そこでようやく一息を付く。
そしていつもの日常のなんら変わらないという様子で、こう続けた

……これが真相か

――なんてくだらないんだろう

――今までのわしは何をやっていた？

――先送りは不幸にしか繋がらないと、痛いほど分かっていたはずなのに

――いや、ひょっとしたら

――この時のために、わしは無様に生きながらえ続けてきたのかもしれないな

――ならば感謝しよう

――今わしが生きていることに

社長はエンブリオに杖を押し当てる。

戸惑い――エンブリオの顔にはそれが浮かんでいた。

押し付けられた杖の先に視線を向ける。それは命取りとでも言うべき迷い。杖の先に魔力の渦が発生している。

エンブリオはようやく理解に至る。杖から逃れるべく回避行動を取る――しかし、それは余りにも遅かった

社長の杖から特大の炎が噴射される。

充分に魔力が込められたそれは、まさに炎の壁とでも言うべきほど巨大さであり、
間近から撃たれたそれを回避する術などない。

エンブリオは包むように焼き上げられる。

――はずだった

エンブリオに当たる直前、炎の壁が上空へと逸れた。

そして、天に上がった炎の壁は、まるで意志を持っているかのように社長の元へ降り注ぐ。
――社長は自身の魔力に焼かれることになる。

杖から放たれた炎が逆流したのだ。

喉が焼け、肉が焦げ、皮膚から水分が蒸発する。
……地面を転げまわり、ようやく炎を消した時、今まで聞いたことがないような"声"を聞く。

その姿は、社長のよく知るエンブリオだった。

ただ声は、耳から恐怖を植え付けられるような、そんなゾッとする声だった。

チハヤの思考は、基本的に単純である。
が、それは愚かと言う事ではない。

相手が真意を隠している時には、その単純さ故に核心に気づくことも多い。
社長がシエラとの関係性を「ビジネス」だと語った時のように。

笑みを消して語る社長の本心をある程度理解した上で、チハヤは笑顔を崩さず語る。

……今日までにしよう、と。

そう言って立ち去ろうとする社長に、背後から声がかかる。

またいつか会おう、と。