僅かな浮遊感。靴先が、地面の上を引きずられている感覚があった。
目蓋が降りていて、目の前が暗い。
空中で揺れる鼻先は、どうやら地面を向いているようだった。

口元に、親しんだ煙草がない。



（……ああ。）

それで、また意識を失っていたのか。とまず思った。

腕が誰かにひっぱられ、汚れた服の下で皮と筋肉が伸ばされている。
掴まれているのだ、とそれはわかったが、誰にかまではすぐに思い当たらなかった。
がくん、と胸の下にある──小さい背中が、よろめいた。
鉄錆びじみた血と泥の匂い。敗戦の匂いに混じり、鳥くささが鼻腔をつく。


それと同時に、背中が寝台に沈んでいる感覚があった。

（そうか。夢か。……負けたときの）

脳みそが、そのときのことを思い返しているんだろう。

あの胡散臭い一揆を取り仕切る女に罰金を払い、
健康的に農場で働かされる事態は避けたとはいえ、
敗走の記憶は思ったよりも苦く残っている。

狙いをつけた獲物に叩き伏された。
酷い疲れは、その代償だろう。

粘着質な自分の性質に辟易しながらも、
思い出すとどうにも苛立ちと苦い笑みが同時に浮かんでくる。

地力もだが、こちらの技を止められたのが痛かったな。とぼんやりとした頭で思った。
ぐらり。と自分を運ぶ背中が傾ぐ。



「レグルス」

倒れるか、と思った身体の傾きは、同行者の名前を呼ぶ声と共に止まった。
そのもうひとりが、どうやらよろめいた肩を支えたようだった。

「その、私が運んだ方が……」

控えめな提案が続き、若い背中の筋肉が少し、固くなったように思う。

「……っわんな！　ひとりで運べる！」
「レグルス。しかし……」
「黙れ！お前の力なんか必要ない！」

伸べられる手をはねのけたのだろう。不機嫌に誰かの手助けを突き飛ばす動きは、
疲労ゆえか鈍くはあったが、目的は達したようだった。

「…………」

離された手はすぐには差し伸べられず、頭の辺りに落ちていた影が晴れる。
隣に並んでいた歩みの速度が緩んだのだろう。

背後で、ぴしりと、何かにひびが入るような音がした気がする。



（……同行してたのは、レグルス＝レグルスだけだったはずだが）

なんの音だかまでは理解が及ばす、空気圧に耳栓をされたように声は遠い。
会話をする誰かを視認するために身体を動かすにも、疲れとだるさが邪魔だった。

「クソが！！」

背負うこちらの重みに軸をぶらしながら、悪態と共に呼吸を正そうとして背が膨らんだ。
ぐっ　と喉と腹で堪える唸り声と同時、腕がぐいと引かれて、力の入らないこちらの身体が担ぎなおされる。
纏う毛皮の下、しなやかに俊敏さを生む筋肉は、小さくとも頼りなくはない。

（……押しつけたんだが、こうまで頑張ってくれるとは思わなかったな）

わずかばかり思考がそれた。青年と呼ぶには少し満たないこのサブリーダーは、
その役職に、どうにか見合おうと気をはっているように見える。


（ああ）

周囲に対するレグルスを遠巻きに見ていた視点に立って、思い出した。

小柄なレグルスの後ろに付き従う巨躯があったな、と思い至る。

（……あのでかい鳥。なんて呼んでたか……）

前へと果敢に挑んでいくようなレグルスの近く、
怯えたような──警戒と慎重さを抱えて付き従うもうひとり。


（ああ、そうだ）


「カカ」と、呼ばれていただろうか。と、泥と鳥の匂いに繋げてその名前を思い出す。



あの鳥、喋れたのか。と、そんなことを思った。

////////

猫背に背をかがめて、だるそうに足を動かす。

時折、レグルスやリセナの方へと視線をなげてはいるが、
自分から会話をするようなことはないまま、後をついて歩いている。

機嫌のすでに悪そうな、もしくはそうみえるだけの男に対して、
魔女はケラケラと笑い出した。

それは、フライバイのことを言っているのだろうか？
　貴方が思い当たってもあたらなくても、彼女の言葉はたんたんと続く。

瞳へ流れてきた煙に僅かに目を細めた。

目を逸らすことなく言葉を受け止める。
手の力が徐々に、縛り付けるものから支える程度に緩んだ。

己の五感を確かめるように、視線を巡らせながら、目をゆっくりと瞬いて
たった今己が触れている両手へ移り、そのままグレイマンを見上げ、手を離す。
触れていた感触を確かめるように己の手を覗きこんで、向き直り荒げた声には戸惑いの色があった。

楽しげに語る医者をややいぶかしげに眺めていたが、
『そんなようなもの』という言葉に、少し肩の力を抜いたようだった。

幾度か瞬きながら医者の指差すその目元を見る。
はじめは医者の目がどうかしたのかと覗き込んでいたが、
はたと医者の意図するところに気がつき、ばつが悪そうに目をそらした。

医者の脇をすり抜け、水場へ向かう。
視線は床に落としたまま。

真っ白に血の気のひいた顔の、赤い目元がわずかに歪む。

どういう関係と問われて初めて、
歩き出してから初めて医者を振り返る。

次の角を曲がれば水場にたどり着くというところで、
思わぬ医者の言葉にカミユの歩が止まる。

隠しきれない動揺を払うような幾度かの瞬き。
呼吸は細く長く、その度に肩がわななき、服の裾が見えない風にふわりと持ち上がって見えた。
…
そうして、やがて。

一瞬、カミユの頭の後ろに輝く三角形が浮かんだような気配がしたが、
瞬きをするようなわずかの間に掻き消えてしまった。
カミユの声に応えるものは、医者以外にはいないだろう。少なくとも、この場には。

手首を掴む枯れた腕を振り払う。

人形は小さく笑って、答える。

店を離れマァムブへの道すがら、クリストファーが口を開く。

小さく、息を吐いた。