【峰白鳥　其の二】

婆ちゃんは春風が好きだ。
暖かいけど涼しくて花や新緑の香りがするのが良いんだと。

毎年春になると婆ちゃんを車椅子に座らせて
菜の花河原やレンゲ野を歩くのだ。

何度か立ち止まってはつくしを摘んだり
たんぽぽの和洋種を確かめたり
飛びだした蛙に驚いたり

今までいた兄貴や姐ちゃんがいない事は口にせず
俺だけが少しちくりとするものを感じながら
新緑と木漏れ日の道を歩いていく。



そして最後はいつもの茶屋へ。
前もって予約をしていた奥の奥に通されて頼むのはクリームのスパゲティーニ。
婆ちゃんはここの抹茶と干菓子が大好きだが、その次に好きなのはこれだ。

「ずぞぞぞ」

店の隅でスパゲティーニをすする音が響く。

婆ちゃんの手は関節があちこち硬くてうまく曲がらず
これを巻いて静かに食べる事ができない。

だから蕎麦を食うようにすすって食べる。
喉に詰まらせないよう、器官に入らないよう少しずつ少しずつ。

「ずぞぞぞぞ」

この日は本来殆ど客の無い日であったが今日はどうも勝手が違い
上品そうな紳士が紅茶を飲みながら横目で、やや眉を顰めてこちらを見ている。

くそ、あの時セイレーンを解約していなければ少しはマシに出来ただろうか。
そんなことを考えながら、婆ちゃんに負けないくらい大きな音で

「ずぞぞぞぞぞぞぞぞぞ」

俺はスパゲティーニをすすり食った。


――その帰り道。婆ちゃんが突然泣き出した。
俺は驚いて、必死に婆ちゃんをなだめながら静かに確かに話を聞いた。

すると婆ちゃんは普段よりくしゃくしゃになった顔を上げて
「雪ちゃんごめんな。婆ちゃんのせいで恥をかかせた」と俺に謝ったのだ。

ああ、しまった。俺はなんてことをしたのだろう。
死角であったから婆ちゃんにはあの紳士の事は見えてないと思っていたが
婆ちゃんは俺のほんの少しの表情の変化でそれを悟っていたのだ。

そんな事は無い、と強く否定するも婆ちゃんは全然泣き止んでくれなくて
俺の喉は段々水気を失っていき、それなのに出てくる声は湿り気を帯びてきて
とうとう俺は堪え切れず目からぼろぼろ涙を落としながら

「婆ちゃんのせいなもんか、少しでも婆ちゃんに
　俺は気持ち良く食事をして貰いたかった。それだけだ。

　婆ちゃんが今みたいな身体になったのは婆ちゃんのせいじゃない。
　だから無思慮に目を向けられるのが耐えられなかった。
　
　俺はどんなふうに見られたっていい
　だけど婆ちゃんがそんな思いをするのはいやだ、俺は、嫌なんだ」

すると婆ちゃんは「そりゃあ私だって同じだよ」と返してくるもんだから！！
「でも俺は」と「でも雪ちゃん」と応酬が始まっていよいよ収集が付かなくなる。

そんなことをしている内に日も傾いてきて
いつのまにか俺だけが泣いていることに気付いた。

いつも通りの穏やかな表情に戻った婆ちゃんは冷えた手で俺の頬を撫でると
「それじゃあ、お互い様ね。仲直り」

俺はまた泣きそうになったが、鼻をすすって、ぐっと堪えて
「ああ、仲直り」と婆ちゃんの冷えた手を擦った。



ようやく婆ちゃんは笑ってくれた。

――ワッ
ドッと音がしたかと思うと四方八方からねこぞくが飛び出した。
まさしくねこの一揆。どこに隠れていたのか大量のねこぞくたちが一斉に雪光の元にやってくる。
押し寄せるねこぞくの足音に有坂の悲鳴が一瞬混ざって溶けた……。