「カサネ、カサネ…」

「はいはい、どうしたー？」

「ふふー…」


　武器の手入れをしながらの等閑な返事にも、一角蛇のエンブリオは上機嫌だ。
　首をもたげ、カサネの背中や肩にスリスリと頬ずりしては、しゅるしゅるとどこかへ行ってしまう。
　名前で呼べと言ったことで、いまや完全に犬猫レベルで懐いてくるエンブリオにカサネ自身は然程気にも留めていなかったが、エンブリオ達のまとめ役である双頭の獣はあまりいい顔をしなかった。


「あんねェ、主殿。お優しいのも程ほどになさいヨ？」

「うん？」


　基本的に他のエンブリオの扱いに口を出さないニグレドが、珍しくこの日は少し苦い口調でそんな忠告じみたことを言ってきたので、カサネは手を止めて顔を上げる。


「……アウインに名前で呼ばせてることか？」

「それもだけど、その後の態度も問題なんだヨ…」


　まったく分かっていない様子のカサネに、ニグレドは深く息を吐く。
　反対側の首――ルベドが後を引き継いだ。


「主殿、分かっているとは思うがな…我らは獣、アウインは蛇だ」

「…？…ああ」

「ヒトの常識は、我らには意味をなさぬこともある」


　前にも言ったが、とルベドは溜息交じりに前置きして、懇々と諭すように続けた。


「名は魂に連なる重要なものだ。これは何も、我等の種に限ったことではない」

「それを従者に許すってコトは、だ。ものすごーく信頼してるってコトなのヨ」


　信頼、と…言葉にするとこれほど軽くなるものもそうはあるまい、と獣は思う。

　それは手に持つ盾のように。
　腰に佩く刃のように。
　その牙を、爪を、主に献身的に捧げて初めて許されるべきもの。
　お前を信じているよと、主が異なる種である使役者に対等を許したということ。

　獣の先代の主は…カサネの祖であるあの男は、そこの所の線引きが実にはっきりとしていた男だった。
　武器としての獣の扱い方を心得ていて、獣が馴れ馴れしい態度を取ることを許しはしても、付け上がるのは絶対に許さなかった。
　主は自分だと一瞥し、まだ年若かった獣を幾度も黙らせたものだ。

　カサネは彼と真逆な質を持つ。
　警戒心が強く、接触を好まないようでいて、一度距離を詰めれば驚くほど容易く背を預け、　平然と急所を曝すような真似をする。
　真っ新で真っ直。まるで疑うことをしないようなあけすけな態度は、自分たちのように歳を経た者には特に抜群の効果をもたらすだろう。
　駆け引きのない、いっそ幼子のようなそれはまさに信頼と言ってよく、間違いなく、絆されていくのが分かる。
　自らの自制心を試され、預けられる背を守らねばという思いに駆られるのだ。

　これを無意識でやってのけるのだから、当代の主は実に罪深い男である。

　だがこれは、あまりに危うい。
　特に、ヒトという生き物をまだよく分かっていない、子供には。


「名を呼ばせるのは、まぁ、あまり褒められたことではないが…主の世界の習慣だというなら、仕方ない…」

「でもねェ…甘やかすのはいけないヨ。あの子はああ見えて、れっきとした“蛇”だからねェ」


　往々にして、蛇の姿を持つモノは強い愛情と執着心を持つ。
　それが魔であれ聖であれ、己が執着したものに対して向ける情は非常に強い。
　強い情と言うのは、容易に嫉妬に変わるものだ。
　そういう連中は感情の抑えが利かない。歳経たものであるならまだしも、歳若いのならば己が欲望には殊更正直だ。


「主に対して限度を越えた情を抱いて、自分だけのモノに…なァんて考える輩も少なくはないんだヨ」

「まぁ、主殿がそれでもあれを甘やかすのならば、それも致し方ない…」


　今一度溜息を吐いた獣は、しかし次に顔を上げた時にはゾッとするような冷たい眼をしていた。
　それは、狩り、屠り、喰らう者の眼差し。
　捕食者の顔だ。


「覚えておくがいい、我らが主」

「俺たちは、主殿を中心に集う烏合の衆でしかないんだヨ」

「その中で、主に仇成す者が出るのだとしたら…」

「俺たちは、躊躇うことなく牙を剥くヨ」

　
　それは、獣の矜持。
　頭を垂れた主に対し、何者かが害を及ぼすというのなら。
　自分たちは迷うことなく引き裂き、喰らうだろうと獣は言う。
　例えそれがともに戦うエンブリオであったとしても、けして容赦はしないだろうと。
　例え主がそれを望まぬのだとしても、止めたとしても、この牙が止まることはないだろう、と。


「覚えておいて…俺たちは、そういうモノだ」

「あの子蛇を生かしておきたいのならば…分別をもって接することだ」

「だってサ、アンタはさ…」

「何故ならば、お前は…」

「「我らを使役する“主”なのだから」」


　どくり、とカサネの心臓が跳ねる。
　この話が始まって以降、双頭の獣はアウインの名を呼ばなくなった。
　彼らが名を呼ぶのは捕食対象外の証のようなもの…それがなくなったということはつまり、彼らがアウインを捕食対象として認識を改めたということである。

　彼らにそうさせたのは、間違いなくカサネだ。
　カサネの無知と甘えが、アウインの命をも危険に曝している。

　主とは…その力を享受し行使するだけではいけないのだ。
　己の元に集う獣…エンブリオ達を纏め、調停する役割も担うのだとようやく理解する。
　少なくとも、カサネにはそれが課せられている。


「…………分かった」


　正直、重い話だと思う。
　自分は元の世界に帰りたいだけで、心底戦うための力を望んでいるわけではない。
　そもそも、元の世界ではコミュ障で引き篭もりがちだった自分に、主などという役割は重すぎる。

　けれど―…
　カサネがその役目を放棄したら、彼らは彼らでいられない。
　現状を維持したいのなら、相応の役目を果たさなければならない。
　カサネが腹を括ることで、この心地のいい関係性が維持できるというのならば。


「……気に、留めておく」


　蜂蜜色の４つの目をそれぞれ見ながら言えば、獣の目はふわりと優しく細められる。
　カサネの内心を察した、よく出来たといわんばかりのその眼差しがいたたまれなくて、視線を手入れ途中の装備に落とした。


「主殿のそういう素直で真面目なとこ、俺好きだなァ…」

「うむ…実に好ましい」

「………………………………………………そうかよ」


　にこにことあからさまな笑顔になったニグレドと、まるで微笑ましいものを見るようなルベドの視線に耐えながら、カサネはひたすら武器の手入れを続けるのだった。









　ここにいないシェイドのエンブリオが、調子こいたパロロコンを締め上げてるとは露程も知らずに…

ひょっこりと地面からオーバーオールのモグラが現れた。
ふわりと宙に浮くと萌の頭をピコピコハンマーで叩く。

最敬礼をした。
お辞儀してる萌のうなじにモグ爺が乗っかっている。

オーバーオールのポケットから大きな自然薯を取り出した。