【-守護の黒犬-メルンテーゼ・斥候中の水辺にて】



水草の茂る地を、気配無く進んでいた歩みが止まる。
辺りを一度見回すと、忍装束の男は水辺の岩へ腰を下ろした。
何かを待つ様にただ沈黙する中、懐から一枚の札を取り出し目を落とす。
炎を纏い、炎を吐く、黒犬の札。


「……」


かねてより、王城の地下牢で度々感じていた違和感――。
その筈は無いのに、感覚の端に引っ掛かる見知ったものの気配。
何度目かの邂逅で、それは思いも寄らぬ形で姿を現した。

オルトロスと呼ばれている、この世界のエンブリオ。
打ち倒し、契約の花を持って近付けば、猛る火の魔獣は炎に包まれその姿を変えた。


――“バスカヴィル家の黒犬”


己が仕える主家、バスカヴィルの血筋にのみ宿る旧き精霊。
何故、と問うてもそれは答えず。
ただ立ち尽くすこの手から、自ら花を受け取って――

そして気付いた時には、他のエンブリオと同じ小さな札となり、掌中に収まっていた。


何故。


あの時から、己の中で幾度も繰り返された問い掛け。
ここに決して居る筈が無いものが、何故。

…かの精霊は、バスカヴィルの血を引く全ての人間に宿る。
もとはひとつの精霊が、それぞれの血の流れに分かたれて。
当主にも、その兄弟達にも、――その子にも。


「………ヨエル」


ぽつりと、我が子の名を呟く。
我が子として育ててきた、己が主…クロエ・バスカヴィルの遺児。


“誰が”　――寄越した？

“誰の”　――“犬”だ？


問い掛けの先に見えるものが、腹の底でどろりと澱の様に渦巻く。

突然姿を消し、“蝶”すら届かぬ父。
あの子がどれだけこの身を案じているかなど、想像するまでもなく。
されど、幼子の身に出来る事といえば――ただ、待つばかり。

何故、と問いながら、その答えはとうに見えていた。


あれは、あの子の寄越したあの子の“犬”だと。
父の身を案じるあまり、自分の守護すら解き放ち、こちらに託したのだと。


「―――」


己の不甲斐なさに、薄い唇が歪む。
半身とも言うべき“犬”を手放したあの子は、今どうなっているのか。
それを知る術すら、今の自分には無い。


「……頼む。無事で」


祈る様な響きが零れ落ち、水のせせらぎへと消えた。

それを最後に、懐へと札をしまい腰を上げる。
顔を上げた先、行き先を促すかの様にひらりと火の蝶が舞う。
無事を願うもう一人――再度はぐれた龍貴と合流すべく、忍はその場を後にした。

（――いつもの待ち合わせ場所。青いマフラーの青年がぼんやりと佇んでいる）

（影へと沈む主を見守りながら、双頭の獣の右側は、すん、と一つ鼻を鳴らし）