フローラの旅は本当に当ての無いものとなってしまった。
　それまではおぼろげながらも、元いた世界に帰りたいという思いを持っていたのだが、自分はどこへ行き、何をすればいいのか。"旦那様"に捨てられた今、目指すべき道はまだ見えない。
　そんな時、フィンヴェナハに誘われた森への進攻は有難く、フローラは二つ返事で同行を願い出た。
　森の奥に進むに従って日も暮れる。二人は草むらを掻き分けて木々の隙間に身を寄せ、眠る事にした。



　気配に気付いたのは、フローラの気持ちもまた、張り詰めていたからだろう。
　少し離れて眠るフィンヴェナハが、苦し気な寝息を立てている。
　フローラが自分の毛布を持ったまま近づいても、相手は覚醒しそうになかった。

「……フィンさん、フィンさん」

　両手で彼女の身体を揺すると、フィンヴェナハは緩慢な動作で起き上がり、傍らにいるフローラをぼんやりとした目で見る。

「……何だ？」

　いつもの覇気ある姿とは違う、どこか弱々しい瞳にフローラは自身の胸がざわつくのを感じた。

「ご、ごめんね……フィンさん、うなされてたから。大丈夫？」

　フィンヴェナハは、やはり焦点のぼやけた顔でフローラを見ながら呟く。

「……うなされていた？　我がか……？」
「……どうして起こした？」

「その、怖い夢を見てるのかなって……」

　そう言った後、かつて"旦那様"との間にあった似たようなやり取りを思い出し、フローラは思わず毛布を握りしめた。
　あの夜が遠い遠い昔のように感じる。彼はまだ、吸精する屍を探しているのだろうか。フローラの空想の中、あの静かな伯爵領の墓地で、赤い火は今も燃えている。

「夢、か……そうだな、あの夢だ……」

　フィンヴェナハの小さな声に我に返った。彼女は少し顔を俯かせる。

「だが、お前には関係の無いことだっただろう？」
「それとも、喧しくしていたか？」

　強張った声色に申し訳なさを感じて、フローラは身を縮こまらせた。

「あう……そうだね……。余計なお世話だったね……」

「いや、責めている訳では無いが……」

　フローラの様子に彼女は少し息を吸った。呼吸を整えて、尋ねてくる。

「お前は、我の奴隷では無いだろう？　なぜ、世話をしようとするのだ？」

　少し前に、主従のあり方はお互いの間に望んでいないと、そう伝えた事を気にしているのだろうか？
　フローラは驚きながらも、自分の気持ちをしっかり話すために声を心持ち力強くした。

「奴隷じゃなくても、心配はするもの」

「だが……、お前の身に悪疫が振りかかった訳でもあるまい？」
「我を助け起こした所で、お前に対等な益を齎せるとは思えないが……」

　腑に落ちないといった様子だ。

「何かをして欲しくて助けるわけじゃないよ」
「ただ、そうしないと、ぼくの胸の中がモヤモヤするから……。つまり、自分のためなの」

　胸の内側が白い霧に満たされて、全身に広がるような気持ち。それが嫌なだけで。
　たぶん、フィンヴェナハが思っているよりもずっと、フローラは自分勝手な人間なのだ。

「そう、か……」

　短い返事にどんな感情が乗せられているのか、フローラには知りようがない。

「世話を掛けたな」

　それだけを呟いて、フィンヴェナハは少し沈黙した。再び俯いて、何か思案しているような目になる。

「だが、また眠れば再び起こさせることになるかも知れぬな」

　彼女は眠る事が、恐ろしいのかもしれない。
　予感に過ぎないが、フローラにはそう思えた。

「……どんな夢だったのか、聞いてもいい？」

「……何と言うことも無い。昔の夢だ」
「微かな記憶と確かな記憶、それぞれが混ざり合って我に夢を見せる」
「だが……、その場所には他にも誰も居らぬのだ　我以外はな」

　フィンヴェナハが淡々と語る夢の内容は、彼女の口調も相まってひどく乾燥無味に聞こえる。

「フィンさんだけ……？」

　フローラが寂し気な表情を浮かべると、補足するように相手が言った。

「或いは、他に誰かが傍らに居たかも知れぬが……。思い出すことは出来ぬ」
「その何者かを探せば探す程に、我が視界は暗く包まれて行くのだからな」
「ただ、それだけの夢だ……」

　しばらくの間、森の冷えた夜気が沈黙に流れて、二人の頬を撫でて行った。

「なんだか、さみしい夢……」

　フローラはフィンヴェナハの語る夢の中にいる自分を想像して、少し落ち込む。

「そんな夢を、よく見るの？」

「ここ最近は、ずっと此ればかりだな。見てしまうモノは、しようがあるまい」

　諦めを滲ませた言葉は、森へ静かに溶けていく。

「昔の夢って事は、昔を思い出すようなきっかけでも、あったのかな」

「さあな……、或いは在ったのかも知れぬがな…」
「在ったとして、我との繋がりは非常に緩慢なモノだ。気に留める必要も無い」

　では何故、彼女はうなされていたのだろう。
　あんなにも苦しげな息遣いを生み出すものが、取るに足らない事象であるとは思えなかった。
　思えなかったが、何も言えなかった。フィンヴェナハの力無い横顔を見ていると、フローラの胸にまた、冷たい靄が湧きだしてくる。

「フィンさん……」

　フローラは言葉の代わりにそっと寄り添って、ぬくもりを分け合おうとした。フィンヴェナハは寄り添うフローラに対して抗うことはしない、ただ少し驚いた様子で、

「……どうした、寒いのか？」

　とだけ聞いた。
　その問いに、なるべく柔らかく見えるように笑って、フローラは言った。

「くっついて眠ってもいい？」

　毛布を手繰り寄せ、続ける。

「へんな夢も、見なくなるかもしれないし……」

　相手は相変わらずきょとんとした顔でフローラの顔を見詰めている。

「……別に構わぬが」

「えへへ」

　寝床をずらして受容れる体勢をとったフィンヴェナハの隣に、無邪気さを装って潜り込んだ。



「おやすみ、フィンさん」

「狭くは無いか？」

「うん、だいじょうぶ」

「そうか」

　隣同士、体温が伝わった。

「相変わらずお前の身体は温かいな、フローラ」

　フィンヴェナハのしなやかな腕が伸ばされる。フローラは大人しくそれを受け入れた。彼女のぬくもりはフローラが知らないはずの、母か姉のもののように思える。とても、心地良い。

「……苦しくは無いか、フローラ」

「ううん、あったかいよ……」

　胸のもやもやが薄れ、代わりに眠気が這い出してくる。そんなフローラを見て、フィンヴェナハはフローラの前髪を指で柔らかくかき上げた。

「実は、一つだけ思い出したことがあってな」

　そのまま静かに、露わになった額へ唇を寄せる。

「眠る前の、挨拶の作法だ」

　若干の緊張で眠気が薄れたが、微笑む相手の姿には安堵もあった。彼女はフローラを抱きとめたまま、自らを指して催促してくる。

「ほら、お前もしてくれ」

　フローラは自分の頬が僅かに染まるのを感じたが、それでフィンヴェナハが満足するのなら、おやすみのキスを返す事に躊躇いはなかった。

「えっと、いい夢を見てね……」

　伸びをして、軽く口を当てる。
　すると額に唇が当たった刹那、フィンヴェナハの瞳から、雫が一粒だけ零れ出た。

「ああ、おやすみ。……フローラ」

　身体を横たえ、フィンヴェナハは寝入ってしまう。
　フローラは戸惑いを覚えながらも、同じく眠ってしまう事にした。森の夜は今だ長く、木々の影は重たげに二人の身体を覆っている。
　こんなにも闇が深いなら、自分には涙など見えなかったはずだ。きっと、そうに違いない。
　毛布を引き上げて目元まで覆う。
　フィンヴェナハに口付けられた額は、何故かじりじりと熱いような気がして、そこまでは隠せなかった。

グッとガッツポーズ。

照れた！

（日記の続きから、時系列を進めて参ります。）

起き上がり、伸び上がって調子を整える。
そうして、また普段と同じように身支度を済ませた。

そうした中、それにしても、と昨夜にも増して不思議そうに顔を見遣り。