こちら見遣って傾げられる首、その表情はあくまで柔い。
首を振ることで、悲観の蟻地獄は、振り払えただろうか。
誤魔化してしまった後ろめたさに、彼の目を見られない。
それでも、彼の口元、尖った歯が舌先を傷めるのを見て。

「……あ、」

思わず、手が伸びていた。だが、指先が唇に触れる、すんでのところで手を留める。
記憶をめくる、彼の表情に気がついて。その邪魔を、せぬように。
思案の表情、尻すぼみに途切れる声。
思い出せないのなら、無理には――…と、言いかけたところで、
発された声に急ぎ、口を閉ざす。耳を傾ける。

「……ローブに、深く被ったフード…。
うふふ、本格的な、魔術師さん…って、感じね〜」

茶化すように叩いた軽口は、だが、後半急に滑らかに歯切れ良くなる彼の声音にぴたと止まった。
挙げられてゆく、ひとつひとつの特徴。
次第に、あら、と言いたげに目が丸くなってゆく。
上向けば、己と同じくらい…目を丸くした、彼の顔が、あった。
まるで、と己が口にするより先に、彼が口を開いた。
――まるで、己の頭の中を読まれているのかと、思った。

「本当〜…、まるで、エンバーさんのご兄弟みたい」

言いながら、また口元に手を当てる。
彼は、さまざまな物語に顔を出す種族ではない。
己が力で世界を渡るのか、それとも彼を知る人が世界を渡る度に語るのか、
とにかく竜や妖精たちのように当たり前に存在し、出会った人の口伝えによって巷間に広まった種ではない。
唯ひとりの人が、意図を持って作り上げた唯一の存在だ。
ならば――彼と似た…彼みたいなひと、というのは…存在、するのだろうか？


「エンバーさん、明るくなったら、本屋さんに行きましょう〜。
図書館でもいいわ、気になるの、エンバーさんのお話のご本、ちょっと見てみたいの」

そうと決めたら早く寝ましょう、と宣言して、彼におしりを向けて。
大事なことを思い出して、動きを止めた。

そう、とてもとても大事なこと。

そんなことをうっかり忘れてしまうなんて、どれだけ取り乱していたのだろう。
そう思えば、途端におかしくなってきて、お腹の中から笑みがこみ上げてくる。
くふくふと肩を震わせながら、おずおずと。決まり悪げな照れ笑いで彼を振り返った。

「……いやだわ〜　わたし、ごはんも食べずに寝ちゃうつもりだったみたい〜」

声を掛けた途端に上がる跳ねたような声に、びくっと首を竦めはしたものの。
フードを被ってこちらを見る彼女の姿があれば、ふは、とゆるく笑い。
己も、彼女も、同じような顔色をしながら何処かおかしげに肩を揺らして。

何でもおいしく食べ切るのが信条のような己にしてみれば、それはきっと、最上級の賛辞に違いなく。
伸ばした指先が彼女の手を掴んで、ゆっくりと引き上げた。揺れるもふもふなおしりが可愛らしい。

ほっこりと暖かくなった胸のうちに口端がにんまりと笑みを描きながら、
己もこういうモノで何か礼が出来ればイイのにと、ひそかに。

＊　＊　＊

―――それから暫く時間が過ぎた後の、野宿中。
火の番をしていてくれた彼女と交代すべく近くへと寄り。
隣に腰を下ろしてから、おもむろにベストのポケットを探って。

言って差し出したのは、端の方が少し焦げたクッキーが包まれた袋。
魔法の掛かったリボンはアヒルの形で上手く結ばれていて、
彼女がそれに触れれば、自然と解かれて袋の口をあけるだろう。

匂いこそ香ばしそうではあるが、味はお世辞にも素人レベルで。
もさっとして甘じょっぱい味は恐らく諸々の分量を間違えていると、
料理に精通した彼女ならば、きっと簡単に見抜けるに違いなく。

ちらちらと眼鏡に反射する火の眩しさに双眸を細めつつ、
がしがしと後頭部を掻き、大袈裟に肩を竦めて。唇を笑みの形に歪めた。

ぽちゃんと川面に座って、ぱしゃぱしゃと泳ぎ始めた。
道は歩かず、今日は泳いで進むつもりらしい。
少しでも、足をかばうつもりのようだ。

水の上で羽根ペンを取り出し、構える。
今日は水上戦を気取るつもりらしい…。

鞄から飛び出してきたエンブリオが、くるくると回る。
回る。
回る。
２人の周りをひと回りするたび、翠の風のように透き通ったその姿が、少しずつ伸びてくる。
まるで影のように、長く、長く。
風が吹き上がる。
髪を揺らす。
ケープが巻き上がる。
たまご色の羽毛があたりに散った。
２人に並ぶように、いつの間にか並ぶ影があった。

てちてちてちてちてちてちてちてちてちてちてちてちてちてちてててててててて！