剥いてしまった牙はどこに向ければいいだろうか。
空を裂いた爪は、まだじくじくと乾いている気がする。
――理由は少し、考えれば判ることだ。
いささか上機嫌に、中空を揺れるこの子は、エンブリオだからだ。
‥恐らくぼくが牙に掛けてしまったものと根っこが同じものだからだ。

まだ、ぼくらは。
イースは、フョードルの友達だと思う。
まだ友達で居られると思う。
でも、それはきっと時間の問題だ。
やがてぼくは。
抗いがたくなって、襲うだろう。
背中か。或いは、正面からか。
此れまでも何度もやってきたような、じゃれつく、という表現では収まらない形で――

すんでの処で友情が決壊を迎えそうだったことを、エンブリオは知らない。
ただ、上機嫌に宙を舞って――もっとも、その上機嫌故に、ぼくの爪は届かずに済んだのだが――いる。

「ふょーどる！」

――意識が途切れない侭、ぼくらの喉が声を紡ぐ。
"交代"を感じながら、少し、安堵する。
少なくとも、ぼくの意識で身体が動かないうちは、自失することはこれまで一度もなかった。
気持ちの逃げだとは思うけれど。
それでも、今すぐにまた裏切ってしまう可能性は低くなったのだ。

「いっしょに、そとにでるの、ひさしぶり、だね！」
「うん、ひさしぶり！」

向けられた言葉に対して、応じるエンブリオの声は、少し前の調子だ。
天真爛漫、‥いや、純真と云う方が相応しいだろうか。
"父親"が倒れる前の頃の、ふるまい。

「‥ふょーどる、なにか、いいことあった？」

くるくると回るエンブリオを、律儀に目で追いながら問いが投げられる。
待ってました、といわんばかりの様子でエンブリオは距離を詰める。
瞳のすぐ前で、飾り紐が揺れる。

「パパ、なおるんだって！」

ぴん、と尻尾が持ち上げる。
‥ぼくでもそうしただろう。それはずいぶんと急なことだ。
紫髪の彼は、まだとてもではないけれど一朝一夕で起きられるようには見えない。
事態が好転している、という様にすら見えなかった。

「なおる？うう？」

首を傾げる"イース"。
勿体ぶるでもなく、フョードルは言葉を継ぐ。
その様子は、心底から嬉しそうな様子を見て取ることが出来る。

「あのね、ぐれいまんがおいしゃさん、つれてきてくれるんだって！」
「おいしゃさん？」

‥ぼくらの立場を考えると、助力は得にくいのではないかと考えていたけれど。
ヒトの医者からの助力が得られるというのなら、確かにそれは有効な選択肢だ。
彼の傷は、ヒトの武器によるものの傷だ。
表面はいくらかを施したけれど、意識の回らない損傷までは、あのときぼくらは癒すことも埋めることも出来なかった。
失われた血だって、特に補うことを考えるでもなく過ごさざるを得なかった。
専門の治療が施されるというなら――それは確かに、彼を揺り起すに足るかもしれない。
尤もその医者が、此方側に取って信用できる人物で、腕をも持ち合わせていなければならないが。

「けが、なおしてくれるんだって！！パパ、いつめがさめるかなあ！おいしゃさんがきたら、すぐかなあ！イース、どう思う？」
「ううー‥？‥けが、なおるなら、ちょっとねたら、おきるかも？」

吐き出される言葉には、それほど勢いがない。
‥似たような事を、考えているのかもしれないな。
――そんなぼくらの調子を気を留める様子もなく。
フョードルは変わらず、踊るように空を滑る。

「ねえ！パパがおきたら、イース、またいっしょにあそぼうね！やくそくだからね！」
「うん！‥ぐりごり、きれいなすなとか、よろこぶかな？？」

乾いた砂地に、"イース"はくんくんと鼻を寄せた。
もし彼が戻ってきたら。
ストゥーラの筆頭を持ち、ぼくらが制御される存在であることを願う彼が回復するのなら。
彼と、フョードルがそこに居て、ぼくらが、変わらずにそこで過ごすことが出来る。


一瞬でも、ぼくは。
或いは、ぼくらは。

そんな頃が戻ってくるのではないかと。
少しだけ、思ってしまった。


――そんな甘い幻想は、勿論現実に降りてくることはない。


久方ぶりに少しだけ、本当に少しだけ高揚した気分で戻ったマァムブ。
屋上で風を望むでもなく。
広場で身体を横たえるでもなく。
ぼくらは、医者が来る算段のついたらしい"父親"の許を、訪れた。

医者は、まだいなかった。
薄暗い部屋は、静謐としていた。
そこに身体を横たえる者が起きられないのを計算に入れても。
静謐に過ぎていた。

血の気がさっと引いた。
前足を運ぼうとして、そこで主導権がない事を思い出す。
‥けれど意図に添うように体は動いた。
そうだ。思うことも思い出すことも同じだ。
ぼくらはこの、底冷えのするような沈黙を知っている。

――この侭放っておいたら、彼は死ぬ。

論拠はない。けれど、不安感、焦燥感にも覚えがある。
医者がやってくるのだというのに、此処に来て命が傾いたということだろうか。わからない。わからない。‥わからない。
今の処緩やかに息もしている。
血色だって、そう悪いようには見えない。けれど、ただ、嫌な予感がする。
先を見通すような便利な瞳も、ぼくらは持ち合わせていない。
このままではいけない、という気持ちだけが先走る。

「いーす？」

ぼくらは平静を装えるだろうか。
"友達"が一番大事にしているものが、もしも。もしも、今、数刻と経たぬうちに、もしも――
振り向いた、身体。
揺れた、赤い花。


――――――静謐を、一枚の硬貨が破った。


千切れ落ちた一枚の硬貨＜ストゥーラ＞は、余程綺麗に転がり落ちたのだろう。
その場でくる、くると音を間延びさせながら綺麗に円を描いて回った。

規則正しく、骸骨と萌芽が繰り返される。

＜マァムブストゥーラ＞の五枚目。
腐敗と、再生の意を有する。

腐敗と。
――再生。

時折、遠雷にも似た響きを帯びて蘇っていた声が、今再びはっきりと脳裏を焼く。
‥今のぼくらは、何を望まれているだろうか。
一番最近、ぼくらは、何を願われただろうか。

熱が激しさを帯びる。
考えが、確信を帯びる。

――イース！イース！！

叶えきれなかった叫び。
勿論、今から打つ手で叶いきれるとは思えない。
けれど、それでも。
折角得た機会へと繋ぐくらいにはなるだろう。

――パパを治して！！

先ほどぼくが、牙をかけてしまいそうになった。
小さな、小さな友達の願い。
ぼくらを終わらせる場所は、‥此処なのだ。

牙を剥くでもなく、爪を走らせるでもなく。
ぼくは友達を裏切る事にした。
自然に言葉がついて出て、主導権を渡されていたことに気が付く。

「ふょーどる」
「なあに？」

ふわり、と紐が揺れる。
話しかけた声に、どうやら本心をひた隠す真似くらいは出来てしまったらしい。

「ひろばにりんご、わすれてきちゃった。とってきてもらって、いいかな？」
「えっ、いーすは？」

当然の反応ではある。
‥ぼくは、なるべく。出来得る限りで、とびきりの笑顔をつくった。

「ちょっとふょーどるに、おくりものをしようかなっておもって」

これも、半分は嘘だ。
可能性という意味では、半分は、本当のことだけれど。


フョードルは、怪訝そうに少し、沈黙した。
それから、明るい調子で。
わかった、とだけ答え、視界から消えた。


‥紐が擦れる音すら失った、暗く静かな部屋。
ストゥーラも倒れて久しい。もう音は、散ってしまったあとだ。
友達の"父"とぼくらだけが残された。
硬貨を、一瞥する。
意図せずとも放られた硬貨は、裏を示して止まっていた。

——―　契約者へもたらされる変転が、降りてくる　――

マァムブの意図なのかどうか、それも、判らない。
けれど――向けられた約束を果たせるように尽力する為には、今のこの姿が都合が良いのは間違いなかった。

（――最後まで、いっしょにいるよ）

不意に。
勝手に口を衝いて出た呟きは、本当にちいさなものだった。
聞き間違えるはずもない声だ。――此処を望む理由になった声。

（最後まで――）

すい、と、相手の目線の高さまで降りてくる。

ふふふ、と笑い、耳元に近づき、小声で囁く。

言い終わると、照れたように遠くに飛び、振り返る。

てしてしされながらなでなで。

ごぶり、ごぼりと小さなエンブリオから泥が溢れ、見る間に大きな泥人形に変異する。