睡眠の必要となったのは、果たしていつぶりだろうか。
　人の身を捨てた頃からそれは人であったことを忘れないためにという毎夜の確認のようなものになっていて、そこに休息という意味はとうになくなっていた。休息する必要のあるほど私は疲労を覚えることはなかったし、元より私という生物であるかすら判然としないものは、そういう質のものだった。
　そんな身で数えきれぬほどの齢を生きた結果として、この身体を乗っ取って以降訪れる疲労と眠気に最初は困惑さえ覚えたほど私の感覚は人間のそれとは乖離し果てていた。精霊に近いエネルギー体という認識の強かったエンブリオが一般生物と同様に睡眠を必要とするものとは思っていなかった、という事情もあれ、私が必死で維持しようとしていた人間としての感覚はとうに私の中から消え失せていたのだ。
　そんな矮小なる私の精神になど気兼ねすることなく、日は巡り夜は来て、私は静かな眠りへ落ちていく。数えるのも面倒になるほど邪視を使い続けた代償は、エンブリオ自身の力が飛躍的に上昇しているとはいえ大きなものだったようだ。その日の眠りはことさらどろりと纏わり付くような、そんな感触だった。

　決まり切って夢に出るような、そんな過去は無い。あるいは夢という一箇所に収めるには、そうした過去が多すぎるのだろう。
　どちらにしても、見るたび夢は異なるものだった。そのどれもに見覚えがあり、突拍子もない夢らしい夢はない、ということくらいは特徴的か。砂漠の真ん中のオアシスに寄り添うように位置する小さな村、天を衝かんとばかり建てられた白亜の学塔、あるいは奇妙な獣が数多侍る家主を持つ一軒家、もしくは都市のあらゆる汚濁が流れ込み、しかしその中にもたくましく暮らすものたちを抱えるスラム。とりとめもまとまりもなく、ただそれはすべて私の行き過ぎてきた光景だった。
　やがてそれは遺跡の残るとある都市へ辿り着き、最後には王城を望むメルンテーゼの光景になって、それらすべてが背後に消え去って周囲に広がるものが暗闇ばかりになっても、夢の中の私はただただ前に進み続けた。この先に何があるか、私にもついぞ予想がつかなかった。
　果たして闇の中を進み続けて、変化と言えることは全く無かった。心の準備をする暇もなく、唐突に訪れた「その」気配を除いては。
　全身が総毛立つ。逃げろと本能が警告を発する。それでも歩みは止まらない。今更逃げられるものではないと、理性が必死に反抗している。
　出会ったところで勝てる訳も逃げられる訳もなく、ただ逃れる道があるとするならそれが捕食者の戯れであった時――すなわち元より捕食する気などない時のみ。そしてこれも私の過ぎ越してきた経験のうちの一つで、同時に二度と繰り返したくないことのひとつでもあった。

　聞こえた声は、どこからのものか判断がつかなかった。空間の全体から、その少女とも少年ともつかない声が聞こえているように感じられた。判断のついた唯一は、その声に確かな聞き覚えがあるということだけ。忘れられなくとも忘れられない、そんな声の一つ。

　はっ、と露骨に馬鹿にする笑いを飛ばして、声は続ける。止めようにも止まらない内心の震えを見透かしたような。

　ああ。これは繰り返しだ。
　何度も何度でも蘇って、私を縛る戒めとしてのそれだ。

　とうに気付いている、そんなことは。
　矛盾と自己欺瞞の塊が、今や私であることは。

　ゆると暗闇の中から、はっきりとした輪郭を伴って「それ」が姿を現す。
　それは、

　通常生物には有り得ない、光を見通さぬはずの白い眼を持つ龍は確かに今の私で、やはりと断定すると同時、急速に躯の底が冷えていく。おぞましさや恐れの類ではない。冒されるべきでない場所を冒され、触れられるべきでないものに触れられた――逆鱗とでも言うべき怒り。常ならば腹を煮滾らせるそれは、ある一線を越えればただ相手を滅ぼすための冷静さへと変ずる。今覚えているのはその感覚だ。

　光が差した。それは自然光ではない。自然光は、この虚無ばかりの暗闇には存在し得ない。この外を映さねば、ここに光はおろか何物も存在することはできない。
　これは魔弾だ。今は祝福と共にその力を譲り渡しているはずのそれは、この夢の中であるからこそ容易に周囲へ現界する。

　眼前のもう一匹の龍へ、魔弾は機関銃の吐き出す鉛玉のように次々と現れては降り注いでいく。いっそ流星にすら似た勢いで。

　穿たれた身から血は流れない。ただ魔弾の過ぎた箇所が抉れて周囲の闇に溶けていく。
　知っている。本来ならばこの力は「あれ」に一つの手傷も負わせられないことを。だからこれはどこまでも私の夢で、願望の顕れなのだ。自覚することの戒めと、振り払うことの願いの。

　そうだ、嗤うがいい。誤魔化すまでもなく自分などその程度であると、私が最もよく知っている。

　目覚めた息はひどく上がっていた。早鐘を打つ心臓の音がまだ夜も明けきらない闇にやけに大きく感じられた。
　レネはまだ目覚めていなかった。生来寝起きの悪いらしいあれを起こさずに済んだのは幸いと言うべきだろう。他のエンブリオたちも目を閉じ動かぬままでいる。

　ただ眠る必要のない小さな人形だけが、こちらを無機質な目で眺めていた。

　どうせいつか、壊れる日など来るだろう。無茶をしていることは理解しているし、それに耐えきれるほど頑健である自信もない。
　それでも。

　私はただ、私の与える可能性の、その未来を見ていたいのだ。