戦線に立てられた砦から、双眼鏡で遠方を眺めるアナは、しばらくしてその口角を持ち上げて言いました。

感謝している、そう言いたいのは、私にはよくわかっていました。
私の重要性、希少性は、幾度となく繰り返されたものだし、感謝の言葉も、何度も与えられたものです。

それでも、やはり、私は。

理解はしていました。けれど、今更生き方を変えることは、とても難しい。
いきなり与えられた生き方に従うことが、なんてもどかしいものか。

けれど、この生き方が、気に入らないわけではないのです。
むしろ、幸せといっていいでしょう。指通りのいい召し物に、食べたことのない様々な料理。
柔らかいベッドで、夜襲を心配せずともゆっくり眠ることができる夜。
確かに、私は幸せでした。

彼方で響く怒号に、悲鳴や刃同士のぶつかる音が混じります。かつては、その真っ直中にいたはずでした。
戦友の代わりに私の隣で微笑むのは、まだ若い人間の娘、アナ。

アナは人間でもとりわけ美しく、賢く、そして野心がありました。
たった一人の王になってみせると私に言ってのけるアナのその横顔には、
『兵士』の持つ獰猛さのようなものさえ見出すことができました。
けれどそれを見せるのは本当に二人きりのときで、また二人きりでも極稀のことです。

私が従者であるにも関わらず、アナは何故そうするのでしょうか、
よくアナは頭を膝に載せて、その細く美しい指先で、私の頭を撫でました。
時にはそこに歌を交えたり、本を読み聞かせることもありました。
文字の知らない私に、読み書きを教えることもありました。

その真意を、私は今も知りません。アナは何を思い、私にそこまでしてくれたのか。

けれど、確かに幸せだったことは覚えています。

その一撃を滑り込ませた後も、僅かに攻防を続けたかと思えば。
…手がナイフから滑り落ちるようにして離れる。
相手の動きはない。いや…実際はまだ動いているのかもしれない。
ただ、それを確認する余裕はもはや彼には残されていなかった。

眼前は血液に染まり。呼吸は荒く、掠れ気味で。
左腕のあった場所から赤白い液体をポタポタと垂らしながら、搾り出すように言い放つ。

散開した物品等を拾い集めようともせず、フラフラと帰路へと就き始める。
念のためにと、震える右手に、新たなナイフを握り締めながら。