酷く険しい表情をしていることは分かっていた。いつもと違うのは、私を支配している感情は煮えたぎるような怒りではなく、困惑、焦り、そしてプライドに抵触される少しばかりの嫌悪感だということだ。苦虫を噛み潰した私の顔を眺めるのは、さぞ痛快に違いない。
窮地に陥った時の私の行動は単純極まりないもので、実力行使でその場を無理矢理にでも突破することばかりであった。それは目の前の人物も、恐らくは手に取るように分かっているに違いない。
だからこそその行動を封じるべく、策を講じているのだから。
「く……」
歯ぎしりの音が、私の口内から骨へと伝わっていく。それを見て実行犯の一人は口許に小悪な笑みを――いや、いつものことであったが、とにかくその笑みが今は悪魔のそれに思える。
「観念したらどうだい？　君が取れる行動は、諦めて降参することだけだと思うけど」

私は答えない。
椅子に座した姿勢から一歩も動けずにいた。いつも標的を蹴散らす時は、一歩も動くことなく一掃出来るのだ。動く必要など最初からなかった。しかし私が、目の前の人物を蹴散らすことは出来ない。私の持っている特異な能力、一言でいうと視認した穴を拡げるという能力は、それこそ土壇場ならば人間の毛穴という毛穴を拡げて破壊することも出来るのだ。文字通り破壊することも。
それが出来ない――目の前の人物には絶対的に敵わなかった。
不満と異議を込めた視線を投げつけると、それを臨戦態勢と見て取った人物は横に居る共犯者、いや、実行犯の二人目を指す。
「分かっていると思うけど、例えば君がこれの腕を飛ばすと同時くらいには、人質を殺すことだって容易いんだよ。それにこれは、腹に大穴が開いても大丈夫だろうし。その点、君や彼はただの人間だよね」
実行犯の二人目、こちらもまた性悪な笑みを――これは明らかに現状を楽しんでいる顔だ。その腕によって、状況が理解出来ていない様子のツグミが拘束されていた。人質、それはツグミのことだ。迂闊だった、と言うしかなかった。歯向かう術どころか意思すら表すことの出来ないツグミを捕られてしまえばどうしようもない。
ツグミは一言、小さな声で私の名を呼ぶのだった。

「…………………ユーグ…………」
「ツグミ……！」



＊＊＊＊＊＊


「おおっと。大人しゅうしときや？」
抵抗の意思だとは思わなかっただろうが、実行犯の二人目はツグミを自らに引き寄せる。その様子を恨めし気に見る私に気を良くしたらしい。頬ずりする程の近さまで顔を寄せている。これは単純に私をからかっていた。
実行犯が扇子を鳴らす。その扇子を突きつけられるだけで、刃物が喉元にあるような心地がする。ああ、人質さえ何とかなれば――と思うのに、多勢に無勢とはこのことだった。刺し合いを狙って攻撃しても、ツグミが傷つく前に倒せるのかどうか。酷く分の悪い賭けでしかない。
「まあ、当然だけど……僕も殺そうなんて思っちゃいないよ。……そうだねえ、あの子たちのオモチャになってもらうかもしれないけど、それくらいなら可愛いものだよね。日頃から、遊びたがっているのに君の目があって憚られているんだよ？」

共犯者予備軍の声が後ろから飛んできた。
「私たちもっとつぐみんとあそびたーい！　ヘアアレンジとかして可愛い服着せて見たいなーって思ってるんだよー！」
「いいなあ、みんなで可愛い服でおめかしって素敵ね！」
「もちろん、異論なんてありません！」
鈴を転がすような声が、私の四肢を重たく縛っていた。ツグミを弄ばれることも、出来れば私が頑なに口を閉ざしている理由についても、どちらも悪い状況になることを阻止したい。そう思っている私を嘲笑うかのようなタイミングで、ついに共犯になることを厭わない様子の一人がツグミの流れるような黒髪を少し取り分け、慣れた手つきで編んだ。先に花をモチーフにした飾りなどをつけられてしまっている。ツグミが抵抗することは無く、直立不動で全てを受け入れている。このままでは更に飾り立てられるに違いない。

「あっさり言うと思っていたのに、意外ねぇ」
「いつまで続くのかな、これは」
日和見を決め込んだ者は、勿論味方になるはずもなくテーブルを挟んでその向かいで呑気に茶を啜っている。摘みたてであると言っていたハーブの香りですら、私の精神を落ち着けるには至らなかった。

「君は本当に強情だねえ。僕たちに話してくれるだけでいいんだよ」
閉じた扇子を口許に当て、多少は呆れた様子で（しかし諦める気は全くない様子で）話す姿はどこか蠱惑的でもあった。私も立場上駆け引きに長けている（実力行使は除いたとしても、だ）けれど、この人物には立場の差という圧倒的なアドバンテージがあった。
包み隠さず話すのならば、人質は解放する――最初に提示された条件だ。



「ユーグの恋愛体験を……それも出来たら、とびっきり失敗したやつをね」


＊＊＊＊＊


乾いた音がカフェに響く。もう日も落ちようとしている中、雑踏に面したオープンテラスだというのに音はこういう時に限って響くし、人通りも多く好奇の視線が降り注ぐ。気になるかと言えば否だった。目の前の女が手を出してきた時点で、私の心は冷静を通り越して冷めきっていた。
「もう二度と会いたくないわ」
「……そうか。残念だよ」
ある程度は残念そうに、名残惜しいといった顔をする。――しまった、傷ついたふりでもすればよかったか。そういう性質でもなかったので、取り繕い方がとっさに思い浮かばなかった。よくある話だ。
激昂した女は、それでも目の前のグラスを掴んでぶちまけるような真似はしなかった。手を出している時点で程度は同じような気はするが、こんな状況になっていても一応は私が良しとして関係を持った女だ。一定の常識は持ち合わせている。
豊かなヘーゼルの髪を振り乱すように踵を返すと、さっさと立ち去っていく。それまでカフェで飲んでいた紅茶の代金は勿論私が支払わなければならない。こうなれば幾ら払うも一緒、と私は従業員にガトーショコラを注文した。ショーケースで輝くそれが、実は気になっていたのだ。彼女の手前自重せねばならなかった（女性は須らく、減量という悪夢に憑りつかれている）。若いボーイは私に同情の視線を寄越したが、取り繕うのも面倒なので無視した。実のところどうでもよくなってしまっていた。これまでにも何度かあったことについて、今更掘り返して反省するようなこともないだろう。

「しかし、度し難いものだな」
一人呟くと、何人かの視線を集めたような気がした。
違う方向に弁明するならば、女はむしろ好きな方だった。しなやかな肌、柔らかな唇――あの特有のしなやかさと艶やかな体は、世の男たちが焦がれてやまないものであるのだから、世間からそこそこ外れて生活している私ですら好ましく思っているに決まっている。そして、身なりが良ければそれなりに寄ってくるもので――日陰で生きている者の中でも、平日の夕方からカフェで一人紅茶とケーキを突っついていても特に不審がられないのは少ない筈だ。そうでなくても、自らの威厳を誇示する方向ではなく、逆に控えようと気遣っている者は少ない。
そう、彼女たちが如何に自分自身を美しく見せようと努力し、時に固執している様はあまり好きではなかった。するなとは言わなかった。しかし自らを誇示するべくして手をかけている行動に対し、一定の評価や対価を求めるような女は嫌いだった。
そんな女は遠慮していたし、逆に知性と教養を兼ね備えた女からの申し入れは断ることは無かった。
今回の相手は知性こそあったが、底が浅かった。酒の席というのは、相手を推しはかることが難しいから困った話だ。
食事に誘い、贈り物をし、時に甘い言葉を囁き――特に普通の、いつものような関係だったのだが。


――私と飼っている鳥、どちらが大事なのよ。


そんな『当たり前』を聞くような女だとは思わなかった。
ガトーショコラを頬張りながら、私は冷め切った感情をいくらか正常に戻していく。こういう時に甘いものは欠かせない。
とりあえず買い物をしてから帰ろうと思い立つ。外食する予定で考えていたから、家で食べるものが何もない。
「そういえば、切れかけていた鳥の餌を買わないとな」
どうでもいいことはさっさと忘却することにして、私は馴染みの店への道のりを考えていた。
私は一日食べなくとも死なないが、あの名も知れぬ小鳥は私の庇護なくして生きられないのだ。






※なんとなく続くと思う