彼女が口ずさむ耳に届く詩の冒頭部は、何処か懐かしくて、切なくて―――聞くと不思議な気持ちになる。
男は決してそうと生まれた己が境遇を嘆いているわけではない。
打ち倒されるだけの役どころで生きていく生き物が居て、それに疑問は持たなくて、
ただ、ちょっとだけ。逃げて、本の向こう側の世界を覗いてみたかっただけだった。

「もっと口ずさんだって構わねーよ。別に嫌な気分にはならねェし。
　それに…その本を読んだ思い出を、どうこう言うつもりはないからさァ」

多分きっと何でもない本の一冊だと思って、時折読み返してはワクワクして、
そうして本棚に飾られているのが互いにとっては幸せだったに違いない。
こんな傷何でもないから、と、茶化して笑い飛ばすことだって簡単だ。
けれど彼女が本当に己を心配して、気遣って、そうして優しく泣いてくれるから。


「ばかだね」

押し付けたマフラーをぐりぐりと押し付けながら、柔い声音でそう呟いてわらう。
ひとしきり拭っただろう頃にそれを退かして、首を傾いで、そうして―――
そうして抱き寄せられて、赤い双眸がきょとんとしたように、ゆっくりと瞬いた。
自然と彼女がそうしやすいように身を屈め、頭に触れる手のひらにやっぱり呆けた顔をする。

あたたかくて、柔らかい。
それはどうにも春が訪れた時のような心地で、無性に嬉しかった。

「ん……そ、っか。そう言ってもらえると、嬉しいっつーかなんつーか。
　おれもさァ、今みたいに自由にふらふらしてる方が性に合ってるから、
　あの“役割”から抜け出せて良かったって、思って……る」

そこまで言って、ぴっと人差し指を突き付けられるのに目を丸くし。
涙の気配が色濃く残る彼女の表情はしかし、普段通りに笑っていて無意識に安堵する。


彼女のお説教はもっともだ。

自分にとっては何でもない言葉でも、相手にとってそうでない時もある。
そんな事を今更自覚させられたよう、ふは、と呼気と共に笑う声をおとし。
おっとりしながらも芯の強さを窺わせるその言葉に、確かな頷きをひとつ返した。

「……だな。少なくともヤドランカが嫌な思いするのは間違いねーんだろうから、
　以後、そーゆー風に自分を言わねェよう気ィつけるわ。ありがとさん。……？」

自らの言葉に恥らう様子をにやにやと笑いながら見遣っていた表情が、不意に曇って双眸が伏せられる。
マフラーを適当に畳み直してから、彼女を見下ろして微かに首を傾ぎ。ふるりと首を振って。

「…おれが何度も物語を繰り返して、ああもう此処から抜け出したい、人間になりたいって願っていたら、
　ある日、その願いを叶えてあげるよって魔術師が何処からともなくやって来てさァ。
　詳しい所は面倒だから省略すっけど、ある条件と引き換えに“人になる魔法”を教えて貰ったんだ。
　そいつが何者なのかは…多分、知らねェし…その条件が何かを探すって事だった気はすんだけど…」

言葉はそこで途切れる。長く旅する間に忘れてしまった記憶は、未だに甦る気配はない。
同じように中途半端に切れた彼女の言葉の先を窺うよう、視線はその姿を捉え。

どうしたんだ、と。音もなく唇がそう紡いで、男の口端がゆっくりと持ち上がった。

そわっ

てちてちてちてち。
孵化したばかりの雛鳥よろしく、また彼の後をついて歩いている。
二月ほど前にも見た光景。
だけれど、今度はその時よりも。少しばかりはにかむような、だというのにどこか楽しむような。
ふわふわと浮ついた雰囲気で、時折翼まで、ぱたぱたと開いては閉じている。
歌うように、何度も楽しそうに彼の名を呼んでは背を追っている。

差し出したのは、ピンクの箱。白いリボンがちょうちょ結びで飾られている。
中身はハートの形のガトーショコラ。
よっつをまぁるく並べてあって、まるで四葉のクローバーのよう。
黒い生地にかかった白い粉糖はふんわりと淡雪のよう。
口に含むと、ほんのりとラムの香りが立ち上る、大人仕様の味だった。
彼がちゃんと受け取ってくれたなら。

はにかむ仕草で、でもはしゃいだ調子でてちてちと走って行ってしまった。
柱の影でご褒美のひときれに舌鼓を打っているエユプの隣にしゃがみこむ。
本人は隠れているつもりなのだろうけど、隠れきれないおしりが丸見え。

ころころと笑っていたその声は、ふと付け加えられた彼の言葉に自然と消えて。

目を伏せてしまったのは、彼の出自を聞いた後だったからなのか。
だが、ゆっくりとした瞬きに変えて上げた視線は、もういつもの笑みの形。

何がおかしいのか、ひとりでしきりにくすくすと笑っている。
その笑みを残したまま、消えかかった紋様を覗き込み。

マントはありがたくお借りして。
少し照れくさそうにしながらも、ちゃっかりとそれに包まってぬくぬくさせていただいていた、のだが。
すぐに悪戯心を出して、片側をぱふっと彼の肩に掛け、２人で半分こにしようと試みた。

なお、新たな爪の紋様は濃紫と濃紺を絡めた幾何学模様。
喜んでくれる彼の様子に、こちらも嬉しくなって短い足でぺちぺちステップ踏んではしゃぐ姿があったとか。

エンバーの後ろにこっそり隠れた！

男の指に嵌る指輪から、不穏な気配が漂い始める。

鞄から飛び出してきたエンブリオが、くるくると回る。
回る。
回る。
２人の周りをひと回りするたび、翠の風のように透き通ったその姿が、少しずつ伸びてくる。
まるで影のように、長く、長く。
風が吹き上がる。
髪を揺らす。
ケープが巻き上がる。
たまご色の羽毛があたりに散った。
２人に並ぶように、いつの間にか並ぶ影があった。

ﾓｺﾓｺﾓｺﾓｺ………

しばらく食べてないなあ…なんて、ぼんやりしながらベストをﾓｺﾓｺしていたら、
両脇から蟹の足っぽい突起とハサミがひょこんと飛び出ていた…。

一時間後……

ベストの胸の辺りに、蟹っぽいシルエットの紋様が、ワンポイントで、ちょこん。