カリンカランには、その妖精の言うことが分からなかった。
アジュガの胎に宿れば、妖精王としての生を受けるということ。
そこまでは良い。
彼女がル・フェイという存在であったことは、今まで謎だったこと全てに説明をつけてくれた。

問題は、彼が妖精王になりたいという、そのことだった。

妖精にも、欲がないわけではない。
しかしそれは大抵気分的なものや即物的なものであり、身分や能力に対して発揮されることはあまりない。
ある者は金を求め、ある者は食料を求め、またある者は住処を求める。
そしてそれと引き換えに能力を提供する者や、気ままにいたずら暮らしをする者が殆どである種族。
束縛のない自由を愛する妖精にとって、自ら望んで王という立場を求めるベルエトワールは、異様に見えた。
カリンカランは妖精の中では人間に考え方が近い自覚があったが、それでも自分でもそんな役割はご免被りたい思う。
はじめから王として生まれついたのでなければ、関わることなく過ごしてゆきたい。
それは恐らく、人間だとしてもそうなのではなかろうか。

カリンカランは不安げに、アジュガの中に潜む者の瞳を見つめた。
彼が本当に妖精なのか、分からなくなっていた。
眼前の彼は、相変わらず飄々と笑うだけで正体がつかみ切れない。
妖精でありながら妖精にあるまじき法則で動くそれには、人型をしたこの世のものではない異形に似た不気味さがあった。
ベルエトワールの考えることが、まるでわからないのに、向こうにはこちらを把握されているような、気味悪さ。

そう言うと、彼はまだ白湯の入ったコップをつかみ上げる。
それを軽くくるくると回すと、湯はちゃぷちゃぷと揺れ、ガラスの曇りがほんの少し解消された。
生じた渦は、次第に弱くなって消えてゆく。

くるくる、くるくる。
ガラスのコップは少女の掌の下で、緩やかに踊り続ける。
ベルエトワールはそれを目線の高さまで持ち上げると、少し懐かしげにその渦の中を覗き込む。
無色透明の湯の向こうに、彼の瞳が、きらきらとぼやけて光った。

コップの底は、ちらりちらりと朝の日差しを集めては、川原の小石にそれを散らしていた。


* * * *


ベルエトワールはある日、上等ではない蒸留器の中で生み出された。
それがもうどれくらい前のことだったのか、ベルエトワールにはもう思い出せない。
五十年前なのか、百年前なのか、もしくはそれ以上なのか。
それでも、一人の子供が年老いて、孫に囲まれ過ごす程の時間が経過していることは、ベルエトワールにも分かっていた。
彼を生み出すための材料は、いくらかの人の精液と何種類かのハーブと、毎日与えられる新鮮な血液。
そして、妖精が残していった光る粉と、香りの好いベルエトワールの花。

彼の親に当たる人間は、エンブリオを作り出す研究をしている壮年の魔術師であった。
生活の要であるエンブリオであるが、目的とする能力を有したエンブリオに出会うには、それなりの苦労を必要とする。
更に、大きな力を有したエンブリオとの契約には、危険が伴うこともある。
彼は考えた。
ならば、目的のエンブリオを、力の弱い状態で生み出す技術があれば、と。
その研究に時間を費やすうちに、彼の若さは失われ、また幾百幾千というホムンクルスが廃棄されていった。

ベルエトワールもその研究の中で生み出された。
彼もまた、数々の失敗作と全く同じように、失敗作としてこの世に生を受けた。
男が求めたのは紛れもない妖精であったが、その生き物は「妖精に非常によく似ただけの」、ただのホムンクルスだったのだ。
男はがっくりと肩を落とし、その瓶を、中に詰まった生き物ごと廃棄しようとした。
しかし、いつも通りの失敗作であったそのホムンクルスには、いつも通りでないところが一箇所だけあった。
彼の研究は未だに実を結んではいなかったが、ホムンクルスとしての完成度は長年の研究の効果か徐々に改善されていた。
ベルエトワールには、彼が求めた「強い能力を持つ生き物」としての素質があった。
その瓶に入った知性のない生き物は、瓶を割り外界へと飛び出すと、男を殺してその脳をすすった。
長年研究に生きた男は、その成果物によってあっけなくその生涯を終えた。

魔術師の脳を糧に知性を得たホムンクルスは、自らにベルエトワールという名を与えた。

彼は暫くの間、男の異物である魔術書を読み漁り暮らした。
それと同時に、ある強烈な違和感を抱えて生きていることに気づき始めた。
「妖精として生まれ」「妖精と同等の力を持っている」のに、自分は妖精ではない。
この違和感は、彼の人生にとてつもない軋みを与えた。
彼の種族としての特徴や存在感だけで言えば、彼は妖精以外の何者でもなかった。
能力から血の一滴まで、妖精と変わる部分は何のひとつもないのに、自分は妖精ではない。
自分の根幹となる部分が、自分は違うのだと訴えかける。
自覚して以来、妖精になりたいという、その欲求はいつでもそこにあった。
腹が減れば飯を食み、眠気を感じれば床に入り、そして何も感じずとも、ただ当たり前のように呼吸をするのと、同じように。
それゆえに、その望みが満たされない苦しみもまた、彼は忘れることが出来なかった。

彼は次第に調べ始めていた。
自身を完全なる妖精とする方法について。

幸い、研究所にはそういった類の本が山ほどあった。
異なる存在から、無から、望む血統を生み出すための資料。
自分の脳となった男の生き様を、そのままなぞっているようで、その行為に不満がないわけではなかった。
しかし、背に腹は代えられない。
一刻でも早く、この満たされない欲求を満たしたいと、彼はその小さな体で研究を続けた。
ベルエトワールがモルガン・ル・フェイと妖精王の記述を見つけるまでに、そう時間はかからなかった。
現在ある資料で、確実に妖精になれることが約束されているのは、フェイの胎に宿り、妖精王として改めて生を受ける。
それしかないのではと思われた。

そこからが長かった。
彼は研究室を拠点としながら、何十年もフェイを求めてさ迷い続けた。
伝承を頼りに近隣の湖は毎日見回り、人々の町や、かの妖精の丘も、ずっとずっと巡り続ける日々が過ぎた。
そしてある日、彼は湖で見つけたのだ。
青や紫の花に囲まれて眠る、妖精の存在感を感じさせない不思議な少女を。
すぐに彼女をフェイと断定することは出来なかったが、彼女の血と毛を持ち帰り調べたところ、少女には近隣の町や村に生きる人種とは何の遺伝的つながりもないことが分かった。
それどころか、人間かどうかも分からないという結果が導き出されたのだ。

断定できずとも、ベルエトワールにはこれで十分だった。
数十年待てば、可能性は得られるのだということが分かっただけでも、長くの行動が報われたように思えた。
彼は早速少女に潜り込むための準備を整えた。
その美しい少女は人間にもその存在を知られることなり、彼女は奴隷商に拾われた。
ベルエトワールはこれ幸いにと、奴隷商の馬車と共に深緋が丘近くまで移動し、そこで計画を実行した。

馬車の休憩中に、池の水を心臓を潰す毒水に変えたのだ。
ほんの少しの間だけ、狙った相手を呪う水に作り変えることは、魔術を使えばそう難しいことではなかった。
そして、少女が断れない状況を作り出し、契約することに成功した。
少女の心臓は既に呪いで潰れかけていたが、契約破棄の要素を少しでも減らすために、すぐに全て食った。
それを終えてから、その幼い子宮へと移動した。

ベルエトワールはこの時点まで、少女がフェイなのかはまだ分からなかった。
違えばすぐに殺し捨て、研究所に戻り、また１からフェイ探しを再開する予定であった。
しかし、すぐにその少女がフェイであるという確信を持つことになる。
少女の胎に宿ってから、あれほど毎日自分を悩ませてきた渇きが、徐々に和らぐのを感じたのだ。
―自分は今、ほんの少しずつ、真の妖精に近づいている。
彼は歓喜に震えた。
そして、オベロンとして完成する日を夢見ながら、長い休眠状態に入ったのだ。


* * * *

そう言うと、ベルエトワールは手を差し出す。
カリンカランへ、握手を求めるように。

カリンカランは迷う、その手を取るべきか。
しかし、その脳裏に一瞬よぎったもの。
妖精王を生み出すうつわである少女の、いつも通りの笑顔。
白い肌にそばかすが散った、帽子の陰に隠れた瞳を、子供のように瞬かせるあどけない表情。
カリンカランは、伸ばしかけたその手を、ゆっくりと引っ込める。

カリンカランが手を取らなかった様子が心外だったように、ベルエトワールは瞳を丸める。
差し出された手は、そのままで。

その回答から、罪悪感というものは一切感じられなかった。
聞くやいなや、カリンカランは飛び出していた。
その小さな体を、少女の腹部へと何度も打ち付ける。
ぱすっ、ぱすっという軽い音が何度も、川辺へと響くのみ。

錯乱しているとも言える彼女を、ベルエトワールは捕まえる。
出会ったときの優しげな調子ではなく、力を入れて、親指を彼女の喉元へ突きたてた。
肺が圧迫されるのを感じ、カリンカランは苦しそうな息を漏らす。
霞んだ視界の向こうに見える双眸は、冷めている。

込められた力が強まる。
首がミシミシと音を立てて軋んでいるのが分かる。
気管が潰れ、あとほんの一ひねりで骨が砕ける。


限界を悟り、カリンカランは涙しながら全身の力を抜いた。












”ポーリーン、今、そっちに行くよう。”

瘴気を撒き散らしながらしずしずと歩み出る