▼t-10

　わたしが彼の前に立ち塞がったのは、間違いなく正義感からではなかった。そのままでは一つの命が死んでしまうだとか、交渉相手を殺してしまっては元も子もないだとかいった、本来理由として然るべきものには当てはまらなかった。かといって理由がわたしの中で弱かったわけでもなく、わたしの思いは、邪魔をすれば間違いなく自分の息の根を止めるであろう目の前の暴君に対しても、迷いなく立ち向かわせるだけの強さを持っていた。

　バンシー、だったか。生命力の強いものを即死させる程の力はないと聞いたはずだが――それでも鬼の前に立ち塞がるか

　「もういいよ――これだけ強ければ、もう獅人さんたちだって言うこと聞いてくれる、よ？」

　わたしの右腕に、『それ』の左腕がゆっくりと伸びる。軽く持ち上げられて、両手を広げて立ちふさがっていたわたしは爪先立ちでよろけてしまう。

　勝算があるから遮るのだろう？何か、隠し種があるのだろうな？

　「何言ってるのか分からない、よ……」

　目の前にいるのに、彼に声が届かない。隠し種なんて、そんなものがあるはずがなかった。勝算なんてない、わたしを走らせたのはただの衝動だった。わたしはどうしても見たくなかったのだ。運命に抗うと誓ってみせた少年の身体が、運命に平伏す様を。わたしと同じところから前へ進もうとした彼が、潰えるのを。それを見るくらいなら、諸共に――自分が全てを手に掛けることになってもいいと、理屈ではない思いを持っていた。



　『バンシーという種の危険性』を見るまで殺すまいと思っているからだろう、『それ』は小さな虫でも扱うように気を使った様子で、わたしの腕を掴んでいた。それでも、爪の触れているわたしの右腕には血の玉が膨れ上がっていたし、間違いなく痛みはあった、はずだ。けれどそれすら印象に残っていないほどに、その時のわたしは激昂していた。他人に『期待』をしたのは、お姉ちゃんに対するものを除けば、初めてのことだったかもしれない。わたしはずっと、自分に絶望したり、世界に絶望したりしてばかりでいた。だからわたしにとって他人に感情を向けるということは本当に久しぶりのことで、一切の制御が利かなくなっていたのだ。

　そう、痛みなんてどうだってよかった。わたしが"バンシー"の力を使えば、即死であれば当然彼は死に、即死でなければ、限界を判じられたわたしは一瞬でずたずたに引き裂かれるだろう。どちらにしろ背後に横たわる獅人たちの未来は暗く、鬼の生命力の強さに鑑みれば九割方後者であると思われた。そんな、絶望的な状況。わたしは今生の別れがほんの数秒後に見えていたというのに、そんな大事なことさえ、一切頭になかった。

　わたしは、子供だった。今でもそうなのかもしれないけれど――。九年間の人生の中で、他人に期待を裏切られたのは二回目、二年ぶりのことだった。


　　　　嫌だ。抑えられないなんて嘘だ。自分になんて負けないって言ったじゃないか。
　　　　だからわたしも、負けないでいられるかもって、思ったのに。
　　　　目の前の『こいつ』も、何を勝手に"もう一人のわたし"を乗っ取って好き放題しているんだ――


　後先など感情の前では無力なのが、この年頃の脳内パワーバランスである。後になって初めて"自覚"することになるその感情は、わたしのなかで轟々と燃え盛っていた。もう、一瞬たりとも我慢などできない。わたしはその感情をこね回し、泣き声だか叫び声だかわからないような涙混じりの音の塊にして、目の前の少年であった『そいつ』へと、全霊をもって叩きつけた。

　「つば、さの、ばかあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ！！！」



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花蓮は悪戯っぽく笑って見せた。