◆一ヶ月前のガンドさんの話・2
　サーペント家の人間はどこかに定住するという事が無い。今現在存在している世界の内最も技術的に進んでいる国、もしくは最も技術開発というものに対して金を出す国を転々とするのが、この家の息の永らえ方だ。家一つを買い、土地に住み付く気で居た当主も過去には居たのだが、それももう五代前の話になる。
　だからこんなに金持ちでそれなりの数の身内を抱えている家の当主にも関わらず、アルエスカ・I・サーペントは今も賃貸暮らしだ。とはいえ賃貸と言っても僕が借りている2DKアパートとかではなくて、フロア二階分ぶち抜きで与えられる豪邸マンションなので、その辺は誤解無きよう。
　実家に帰るとまた値の張るインテリアが追加されていた。廊下に新しい絵画が飾られていたのだ。抽象画で、画像加工ソフトで作られているらしい質感をしていたので現代アートだろう。ついでに拡大鏡で画像検索をしてみたが、特に何もヒットしなかったので、きっと街中の画商から買い付けた無名の作家の絵だ。
「あら素敵な絵」
「あの母親また無駄遣いを……」
「好きな物があるって素敵な事じゃない」
「どうだかねえ」
　藍と灰色という色合いのせいか、なんだか寂しい印象を与える絵だった。この絵についての薀蓄には僕は特に興味が無いので、母親が来る前に退散したい。
　このマンションの部屋は作りが変わっていて、ロフトに当たる二階から入って、一階に降りるという構造の二階建てだった。一階では親族が集まって談笑している。リビングには母に叔母や祖母、女性が集まって今日の為の調理の準備をしていた。
「母さん、ただいま」
「お帰りガンド。よく来たわね、イシューさんも」
「ご無沙汰しております」
　二人揃ってコートを手にぶら下げていたら、脇に控えていたお手伝いさんがそれを取って帽子掛けに掛けてくれた。イシューがすいませんと頭を下げる。彼女は僕らと違って世話役というものを使い慣れていない。
「お父さんなら今日は書斎よ」
　父親はいつも書斎か私室のどちらかに篭もっている。今日は書斎だったらしい、一階の通路の奥、家の中心の騒音から離れた最も静かな場所だ。窓側の壁が全面ガラス張りというマフィアもびっくりの金の使い方の廊下を通って、ノックする。
「父さん、俺ー。ただいま」
「ああおかえり。開いてるぞ」
　ドアを開けて頭を下げる。イシューも同じようにし、それから父と彼女とで挨拶が交わされる。父はいつもと同じように本を読んでいた。彼の頭を見やる。緑交じりの黒髪の中、白髪が占める面積は最後に会った時と変わらないように見えた。友達の中には、近頃自分の親類縁者と会うと心が苦しくなる人間も居るようで、「最近父親が老けてきて痛ましいんだ」という話を聞いた事もあったけれど、うちに関してはまだそんな歳でもないようだ。
「じゃあ私お料理のお手伝いしてくるから」
「あ僕も」
「貴方が？　お手伝いをしてくれるの？　本当に？」
　イシューがにっこりと意地悪そうに笑ってみせた。
「……いや、多分やれる事ないから、やっぱいいや」
「はいはい」
　別に男尊女卑の家庭だいう訳でもないのだが、僕ら一家の男はいつもこうして家事諸々の仕事を免除される。それは父、僕、弟と、三人揃って家事が壊滅的に下手だから。それでも僕はマシな方で、多分弟はじゃがいもの皮むきに一個三十分は掛かる筈だ。
　長いスカートを翻らせ廊下を渡っていくイシューの後姿を見ながら、僕と父とで二人きりになる。幾らか間が空いた後、先に父が話しだした。
「最近はどうだ」
「一年かそこらで何も変わらないよ。元気にしてる」
「そうか。困った事があれば頼っていいんだぞ。たまに電話もしてくれ」
「うん」
　そのまま話す事も無くなり、僕も自分の部屋に戻ろうかとしていた時、廊下を走ってくる足音が聞こえた。だが勢いが良かったのは途中までで、足音の主はドアの前でぴたりと立ち止まり、ドアノブを回す音も随分とゆっくりだった。
　そろそろと紫髪の青年が顔を出す。
「お、お兄さん、い、居ますか？」
「居るよー。ただいま、クロック」
　そろそろ。おどおど。きょろきょろ。
　そういう表現がしっくりくる足取りでもって、可愛い僕の弟がドアから顔を出した。
　よくよく見ると彼の着ている服には見覚えがあって、何年か前に僕があげた、お下がりのパーカーを着ていた。
「クロックぅー、まだその服着てるの？　自分の服ぐらい買おうよー」
「えー……気に入ってるから。それに暖かいし。ふかふかしてるし」
　クロックは僕が結婚する時に実家に置いていった服をいつも着ているのだ。今日は兎の耳の付いた大きめのパーカーだった。
「自分であげておいて何だけどさ、クロック君にはもうちょっと大人しくてオーソドックスな服の方が似合うと思うな。これ着るならせめて髪の毛もうちょっと明るい色に抜かないとねぇ、うーん、何だか」
　僕の若い頃のファッションセンスはなんかこう……コスプレかというような恰好……つまりこう若気の至り……痛……独特なので、所謂ナードに属する若者である弟にはあまり似合っていないように見えた。
「まだ……着れるから……」
「そ？　まいいけどね、服ぐらいどうでも。ただいまクロック」
「お帰りお兄さん！」
　弟ははにかんだように笑った。
「どしたの。父さんに用事？」
「う、うん、ちょっと」
　僕の横をすり抜けてクロックが父に話し掛ける。
「あ、あのね。今ちょっと分からない所が出来ちゃってね、新しい本が欲しいんだけど……駄目かな、お父さん」
「何てタイトルの本だ？」
「『無重力論』と『宇宙空間における形而上学について』っていう本なんだ」
　父は拡大鏡で検索を掛けたらしい。父は眼鏡の向こう側の画面を見つめて、数秒の間黙っていたのちに口を開いた。
「そうか、それはうちには無いな……よし、本ならいいぞ」
「本当！？　ありがとうお父さん！」
　僕には聞いた事もないような本のタイトルだった。物理学とは高校時代に縁を切ってそれから触ってもいない。大学に入ってから院の今まで、ずっと物理学を専攻しているクロックとは随分と溝を開けられてしまったようだった。

　　　*

　昔はお兄ちゃん、年に二回、夏と冬には必ず実家に帰って来てたんだ。
　でもいつからかな……冬の年越しの時にしか帰って来なくなった。
　慣れないうちは、お兄ちゃんと一緒に灯篭流しに行けないの、寂しかったなあ。
　サーペントの家は、必ず夏に灯篭流しをするんだ。一族はどんな文化圏、どんな宗教圏の所を住処にしても必ずこれをし続けてきたし、これからもし続けるんだって。
　川に魂の道しるべとしての送り火を流す事で、夏に帰ってくるご先祖様の魂を、またあの世まで案内してあげるんだ。
　別に僕だって信心深い人間って訳じゃないんだけどね。でもこういうのは必要だと思うよ。
　灯篭流しの日は死んだお爺ちゃんの事とか、必ず思い出すからさ。
　きっと僕らの子孫も僕らをこうしてたまに思い出してくれるんだろうな、って思えば、死ぬ日があんまり怖くなくなる気がするし、何より、一族の人間としてだけじゃなく、自分自身の為にもこの家を大事にしていこうって思えるから。
　大事にしたいと思えるものがあるのは嬉しい事だよ。それが必要無いほど、僕は強くなった覚えもないし。

　ただ灯篭流しの日に帰って来なくなったお兄ちゃんは、今どんな気持ちで生きているのかなって、たまに考える事がある。
　お兄ちゃんは人生楽しそうだし、僕と違って強そうだし、多分灯篭流しなんて古臭い因習、興味無いんだろうなって思うよ。
　でも寂しくないのかなあ。自分の足元を心細く感じる日は無いのかなあ。
　死後の面倒まで見てくれる人間なんて、親族以外に誰が居るっていうんだろう。

◆一ヶ月前のアウルさんの話・2

「ご飯は食べていく？　なら奥さんに今日は外食してくるってメールしておくよ」
「あー……そうすね。帰って作るのも面倒だし」
「じゃあそれで！　飯ぐらいは値段気にせず食いたい物を食おーう！
　その会話をしてから数時間後。一件目の店でどっしりとしたステーキを入れ、はしごした二件目の店でワインを入れたガンドはすっかり出来上がっていた。街灯のちらつく街の中、ふらふらと千鳥足で歩いている。歩行に支障を来たす程ではないアウルと比べて、ひどく酔っているようだった。
「帰るの面倒臭い……アカイン君家近いんなら泊めてよ……このままだと吐く……」
「先輩家どこですか」
「ヒーゼン」
　ここから帰るとすれば一時間以上掛かる地名だった。
「ああ……確かに遠いっすね……。泊めるのはいいですけど。奥さんが心配なさるんじゃないですか」
「へーきへーき、きっとイシューも今頃誰かと会って僕の事なんか忘れてるよ、あはははは！！」
「そうなんすか……」
「大体ね。浮気現場に僕の家を使うのだけは止めろって言ってるんだけどね。あんま聞き入れてもらえない」
「え」
　酔っぱらったガンドが語る所によれば。ガンドの嫁のイシューというのはかなりの放蕩癖の持ち主のようで、旦那が家を空ける日があれば必ず他の男と会っているのだという。
　彼女のコートの中に入っていた知らぬ地名のバーのレシート、さして汚れていた覚えも無いのに連日シーツを洗濯するという奇行、急な外出……ガンドは妻の浮気に関する数多の状況証拠を、懇切丁寧に並べ立ててみせた。
「何でそんな女と結婚したんすか……？」
　まるで昼ドラの登場人物のようだ。現実にそれほどまでに淫蕩な人間が本当に実在したのか。アウル、カルチャーショック。
「す、好きだから……？」
「お疲れ様っす」
「ふふ……それにね……いいんだよ別に……僕だって毎週コンパ行ってるし……お互い様ってやつさ……」
「病気貰わないで下さいよ、うちの会社人手足りてないんですから」
「ふふふ、ご心配有難う」
　それから二人は駅に向かい、ヒーゼンよりはまだ近いアステクリフ行きの電車に乗る。休日の都会の電車は深夜といえどそれなりに混んでいて座る事が出来ず、ガンドは「吐く……」とぼやきながらずっとドアに寄り掛かっていた。それを見ながら、アウルはこの色男がいつもどんな手で女性に誘いを掛けているのか何となく想像が付いたのだった。例えばここで嘘でもいいから「終電を逃した」と言えば、この見るからに辛そうにしている人間を罪悪感無しで見捨てて行ける女はそれほど多くないだろう。
　辿り着いたアステクリフ駅は、中央街よりは少し離れた閑静な住宅街だった。電車に乗れば歓楽街にも観光地にも短時間で行けるがこの土地自体にはさして見るべきものはなく、あるのはスーパーや軽食屋や本屋など生活に密接した店だけ。住むには適していそうな土地だった。
　アウルはガンドに肩を貸しながら、同じような家ばかりの並ぶ道を駅から十分ほど歩き、とある三階建ての、新しくもなく古くも無い平々凡々なアパートの前に来た所で立ち止まった。
「先輩着きましたよ。ここの二階。俺正門開けてきますから待ってて下さい」
「はぁーい……」
　門を開く為、指紋認識装置のある所までアウルが向かおうとした所で、彼の歩みが急に止まった。ただでさえ険しい顔に、一種の苦渋の色が走る。
「居るな……」
　大男が身じろぎする。
「え？　どしたのアカインく」
「お帰りなさい、梟さんっ！！」
　その時甲高い声を伴い、物陰から黒い影が飛び出した。予期せぬ影がこちらに向かってくる恐怖でガンドは思わず身構えた、がその陰の向く先はどうやら色男の方では無かったようだ。
「え、な、何……？！」
　アウルの方へと一直線に向かって行ったその黒い影は、目を凝らしてみると、黒いドレスを着た少女なのだった。少女はアウルに抱き着き、頭をすりすりと胸板に押し付けている。
「お前なぁ、今何時だと思ってンだ……！？」
　それをアウルはべりっと迷惑そうに引き剥がした。
「あ、あれあれあれー？　僕お邪魔だったのかなぁー？」
「……違います」
「誰この人！　頭ピンクなんだけど！」
「あっはぁ僕はアカイン君の会社の先輩で、ガンドって言いま」
「知らない！　ていうか興味無い！」
「なっ」
　ガンド、女性にここまで無下にされたのはいつ以来だろうとか考える。この僕にここまで冷たく出来る女性が存在するなんて。カルチャーショック。

（続く）

（低姿勢を過剰だと言われた事に対して、ちょっと考え込む）

（ジェイド君は良くも悪くも素直なので、ウソを教えても多分通ります。）
（パーカーの紐はひらひらと揺れています。引っ張っても大丈夫です、フードがきゅっとなって、リアクションをとるぐらいです）