裾を掴まれて投げ掛けられた言葉に、ああ、失言だったなと思った。
必要のない事まで告げてしまったのはちょっとした脅しを兼ねたつもりで、
けれどもそれは、彼女にとって十分すぎるほどに効いてしまったようだった。
ぼろぼろと泣き出したその姿を少し困ったように見下ろしながら、
いつもその傍らを飛びまわるエンブリオへ、音もなく「ゴメンな」と呟く。

「…ひどいことを言われたワケじゃねェんだよなあ。事実だよ。
　“生まれた時からそういうものだと決められてる”んだ」

――ジャバウォックって知ってる？　と、出来る限り優しい声を出して聞いた。
自分の生まれた世界を出てから、その話は他の世界では書籍になるような、
割と有名な話であることを知ったから、彼女も聞いたことはあるやも知れぬ。

暗い森の奥に住む人喰いの化け物であるジャバウォックが、
剣を持った少年と戦い、首を落とされ、打ち倒される物語だ。
己はそれだ。何度読み返しても物語のはじまりと結末が変わらないように、
“人を喰らう化け物のジャバウォック”としてかの世界に生まれ、
最期は“剣を持った少年に首を落とされて倒される”と決められている。

打ち倒された後で命が潰えるとともに眠りにつき、
本が開かれる度、また同じ化け物として甦り物語を進めて行く。
話に欠かせぬひとつのピース。けれどその人生や命に、多分、意味はない。

「あー…誰が悪いとか酷いとかいけないとかじゃァなくてさ、
　おれも、そのガキも、与えられた役割をこなしてたに過ぎねえの。
　…まァおれはちょっとイレギュラーだったのかも知れねーけど。
　当然首落とされんのは痛いし、苦しいし、森の中暗くて怖ェし？」

何時だったか、そんなピースに意識が芽生えたと言うべきなのだろう。
幾千度目か甦った化け物はこう思った、ああ、この世界から抜け出したいと。
人のように生きてみたい、勇者に倒されるばかりの短い人生ではなく、
彼らの見る世界を己もまた見てみたいと、願って、そして―――


瞬く。
その願いを叶えて“呪ってくれた”あの人は、誰だっただろう。
人の身体を得て物語の繰り返しから抜け出すために交わした約束は、
未だによく、思い出せずにいる。けれど。

泣いている彼女を見下ろす。巻いていた紺のマフラーを外してその顔に押し付ける。
ネックウォーマーだって完備だ。首が相手の前に晒される事はない。

「だな。今はしてねえなー。
　そもそもおれ、人食べるととか好きじゃねェんだよまずいし。
　それよか人が作った飯の方が遥かに、何万倍も、うまいと思ってるし」

ぐいぐいと、その涙を拭うように冬の森の匂いのするマフラーを動かす。
出自はどうあれ、今はこうして人の形を取って相応に幸せに暮らしている。
だから、泣くことなんてないのだ。泣くことなんて。
にんまり笑う。伸ばした手で、彼女のふわふわの髪と頭をぽんと叩いた。


「…ありがとなァ、ヤドランカ」

かくいう己も体重が――あってないようなものだが、増えた気がする。
クリスマスの頃に丸くなっていた彼女の下半身を、何となしに眺め。

言うだけ言って、結局何もしないのは明白。
今年も相変わらずの調子でふらりふらりと道を行く――。

彼の口ぶりを真似て、くすくす笑いながら繰り返す。
焼く前に入れた切れ目そのまま、菱形に切り分けられたパイは、
表面をしっとりと濡らして彼の視線を受け止めている。

差し出された小袋を受け取って、ためつすがめつ。
開けてもいい？　と目で問うて、彼がうなずいたのなら、そうっとそうっと袋を開ける。
中から出てきたカメオに見開いた目は、更にお気に入りのコートをほめられていっそう。
零れ落ちんばかりに開かれる。少し遅れて、ぱあっと頬がばら色に上気した。

嬉しさのあまりふわっと羽毛が空気を含んでふくらみ、おしりがぴこぴこと揺れる。
早速胸元に飾って、その場でてちてちと回ってみせる。

手元に集中していて、彼の様子を見られなかったのは、もしかしたら幸いだったのかもしれない。
もし見ていたのなら、彼の手つきを心配して、逆にあれこれ邪魔をしてしまっただろうから。
結局最後には手を出してしまったわけだけど。

ところで、品評会ではちょっぴり渋くなっていたはずの顔が。
彼の目が光るのを見てしまえば、たちまちくすくすと笑いがこぼれる。

消えかけている紋様を、覗き込んで。

なんて、冗談めかしてお願いをしていたその口が。
何気ない彼の言葉にふと止まる。
無意識にか、むに、と自分の二の腕を撫で。
それから、その手がそうっと下に降りてお腹を撫でる。

じゅるり。