ふと、呼ばれたような気がしてカサネは周囲を見回した。
　荒れた砂地は昼間こそ気温が高くて辟易するが、夜になると急激に気温が下がるり、生き物の気配が希薄となる。
　世界が眠ったような感覚が、闇が、他の場所にいるよりも濃くなる気がしていた。
　そんな中で、先程から何かに呼ばれている気がする。
　声ではない。
　鳴き声のようなものでも、明確な音でもない。
　それでも『聞こえる』としか表現しようのないその感覚を、どういえばいいのか。


　「どしたの、主殿？」


　動きを止めた主を不審に思ったのか、今日もカサネの毛布代わりを引き受けていたニグレドが首をもたげた。
　ああ、うんと生返事を返しながら、三角に尖った耳を見る。
　自分よりよほど聴覚に優れているはずのニグレドの耳は、今は特に何かが聞こえている様子はない。やはり気のせいなのか。


「なあ、ニグレド……何か、聞こえないか？」


　気のせいにするにはどうしても腑に落ちなくて、虚空を見つめながらカサネが尋ねれば、ニグレドの片耳がぴくっと動いた。
　眠そうにしていた三つの瞳がカサネを見据える。


「何かって、なあに？」


　首を傾げ、目を細めていっそ楽しげに問うが、彼の眼は一切笑ってはいない。
　黒い靄状の体に触れる背にざわりと駆けたものは、ここ数日で嫌というほど知った魔力という力の流れで。
　尋常ならざるエンブリオの様子にうろたえるも、唯一彼を止めるであろうクレノが静観しているので、別にニグレドは怒っているわけではないらしい。
　なら、続けるべきだろうか……この状態から口を閉ざせば、かえって機嫌を損ねそうな気がする。


「はっきりとは分からない…だが」


　呼ばれている気がする、と口にすれば、ニグレドは牙をのぞかせてにぃっと笑った。
　相変わらずの凶悪極まりない笑顔に思わず背を浮かせたが、今回はそれだけでは済まなかった。


「あぁ…嬉しい…嬉しいなぁ！ようやくだ!!」

「ニグレド？」


　ごうっと強風のような魔力が唐突に吹き荒れた。
　もろに背中に喰らって前につんのめりそうになり、慌てて体ごと向き直れば、右半身だけの獣は立ち上がって宙を仰いでいる。


「お前の声が、ようやく我らが主に届いたヨ！」


　歓喜に満ちたニグレドの声に呼応するように焚き火が一気に燃え上がり、金色の火の粉を撒き散らす。
　火の粉は風に乗り、闇に溶け、やがて虚空に波紋を生み出していく。
　唐突に、ボッと音を立てて空気が燃え上がる。
　いつか見たその光景に、カサネは思わず瞠目した。


――ドコダ…


　ぎこちない声が、ぐるりと周りを見渡すような気配を伴って聞こえてくる。
　揺らめく黒い炎はしばらく探るように身を震わせた後、ゆるりと縦に割れた紅い眼を開いた。


――…ソコニイルノカ、兄弟…

「ここにいるヨ、兄弟！分かるかい？ここさ!!」

――アア…分カル…ヨウヤク、見付ケタ…！


　静かに黒の揺らめきが広がっていく。
　そこにニグレドの時のような猛々しさはない。
　淡々とした気配をまとって現れたのは、ニグレドの対称である左半身のみの黒い狼のような獣だった。
　だが、最初に会った時のニグレドと同様、その目と口、更に体の右側には子供が滅茶苦茶に塗ったような糸状の何かで封じられている。

　ドクリと心臓が音を立てた。
　以前は訳も分からないまま湧き出した怒りに飲まれるだけだったが、今回は違う…

　己の血の中で、騒いでいるのが分かる。
　不快に感じている部分が、自分の中にあるという感覚。
　それと自分の境は限りなく曖昧ではあるけれど、自分とは違うものだと分かる。

　それは嘆いていた。
　獣の不自由を、理不尽を、別たれたことを。
　そしてそれは叫び、暴れ、駆り立てる。
　その獣を解き放つことを。
　彼らがあるべき姿へ戻すことを。

　手を伸ばせば、封じられた獣は自ら鼻面を寄せてくる。
　今となっては随分馴染んだその手触りは、ニグレドのものとそっくりだ。
　目を塞ぐ糸に触れれば、とんでもなく高密度の魔力構成式であることが分かり驚く。
　あの時はいったいどうやってこれを…

　そんな思いが伝わったのか、ニグレドが体を寄せてきた。
　別たれている靄となった部分は絡み合い、混ざり合おうとしていたが、やはり糸に邪魔されて出来ないらしい。


「大丈夫だヨ、主殿。だって、主殿はもう俺達の名前を知ってるんだから」


　ねっ、とニグレドが左半身に問えば、対の狼もまた頷いた。
　だが、カサネは彼の名を聞かされてなどいない。
　疑問符を頭に浮かべると、最初に言ったじゃないとニグレドが笑う。


「俺達は、二つで一つって言ったデショ？」

――我ラノ名モマタ、繋ガッテイル…我ガ名ヲ呼ベ、主殿


　左半身のみの狼は、何の迷いもなくカサネを主と呼ぶ。
　唯一開いている額の瞳は、ニグレドと同じ信頼を宿して見下ろしてきていた。


――兄弟ヲ通ジテ、ズット貴方ヲ感ジテイタ。大丈夫ダ。俺ガ貴方ヲ知ルヨウニ、貴方モ既ニ俺ヲ知ッテイル


　紅い瞳が笑うようにきゅうっと細くなる。
　これも、ニグレドと同じ仕草だ。

　カサネは狼の頬に手を寄せ、目を閉じた。
　この感触を、知っている。
　野営地でカサネがニグレドを毛布代わりにしていたとき、触れていたのは決まって左側…本来彼のいるべき場所だった。

　知っている、と自分の内側から声がする。
　その名は『彼』が与えたもの。
　彼らを形作り、繋ぐもの。
　ニグレドと、自分と繋がる絆の証――…


「ルベド」


　唇が紡いだその名は、妙にしっくりと馴染んだ。
　途端に吹き荒れる魔力の奔流に襲われ、吹き飛ばされそうになりながら何とか耐える。
　ガラスが砕けるような高く鋭い音と共に、一瞬閉じた瞼さえも刺すような光が走り…消えた。

　恐る恐る目を開けたその場所に、左右の半身に別たれた獣はいない。
　カサネの前にいたのは…赤みを帯びた艶めく黒い毛皮と、それぞれに三つの目を持つ双頭の狼である。
　閉ざされていた蜂蜜色の目がゆっくりと開き、カサネを見つけると嬉しげに細められた。


「ようやく、こうして会うことが出来た…我らの主殿」

「あぁぁぁぁ！何百年ぶりだろうねェ！やっぱりこうでないとダメだー!!」


　同じ体を持つ首なのに、その性格はかなり違うらしい。
　落ち着きのあるルベドに、いつも通りのニグレド…いや、これからは、この姿こそが『いつも通り』になるのだろう。


「改めまして、だネ！主殿!!―我が名はニグレド」

「我が名はルベド―…我らは、深き場所より出でし煉獄の獣」

「黒き腐敗」

「赤き真理」

「焼き払い」

「喰らう者」

『今後とも、ヨロシク』


　長年別たれていたとは思えぬほど、ピタリと息の合った口上に、圧倒される。
　頭を垂れた双頭の獣に、カサネは仰け反りながらもこちらこそ、と応じたのだった。




　今までとは比べ物にならないほどの、懐かしさを覚えながら。

カップシフォンの入った袋を手渡そうとした。

（ぷるぷるしだした様子に一瞬、何か苦手なものでも入っていたか…と思ったが、
どうやらそういう訳では無さそうで安堵する。
目を潤ませてこちらを見上げる様に、“仔犬の様だな”などともこっそり思いつつ）

（おかん属性に目覚めた狼へ、こちらもそっと小声で返すおかん忍者）

＊

（一瞬垣間見せた泣き出しそうな表情に、しかし気付かぬ素振りで礼の言葉を受け取る。
“釣り合わない”という言葉には、“いや、そんな事はござらぬ”ときっぱり返し）

（掌に小さな火蜥蜴を乗せながら、こちらからも改めて礼を告げた）

（何やらカサネの背後でくずおれているエンブリオが目に入る。
どの様な事情かは当然知る由も無かったが、
その姿にどことなく不憫なオーラを感じる忍者であった）