ザカリア・タイ。

　ヴォルフスムーンは“断壁の世界”と呼ばれている。
　その名を告げた瞬間、多くの人間達は顔をしかめるだろう。
　世界符号に“壁”と付く世界は、だいたいの場合に於いて“牢獄”として使われた世界であった。
　彼らの認識に間違いはなく、ヴォルフスムーンもかつては牢獄であった。

　今現在も、かつての檻としての機能は残っている。
　ヴォルフスムーンの領土には“招かれる”という手順がなければ出入国できない。

　それ故に、内側に“招く”為の場所がどうしても必要であった。
　ザカリアが生を受けた場所は、断壁の世界であって断壁の外にある世界。
　断壁への入国管理を行っている西部浮島であった。

　ヴォルフスムーンの内であって外でもある場所には、ヴォルフスムーンと異なる魔術が根付いている。
　彼もそういった魔術師達の一人である。
　

　ブリギットを信仰し、オークの杖を持つ男。
　それでいて“人狼”であるが故に、まことのドルイドにはなれぬもの。

　彼はハーブを調合する。
　長きにわたって伝えられた知恵は、野草に秘められた力を最大限に引き出すだろう。
　その力が、彼が望んだ力とは異なろうとも。







　ここは大草原。
　もとより人の少ない地域ではあったけれども、今日はいつもに増して人が少ない。

　というのも、わたくしの仲間達が揃いも揃って別地域へ移動しているのだ。
　真っ黒に燃え尽きたプロフェッサー・カーライル。
　彼を馬車に積み込んで、焼け付いた身体を冷却――…もとい洗濯するために女神の園へ出掛けていった。

　わたくしたちは居残り組だ。
　彼らの代わりに草原を進み、彼らの代わりに地図を描かなければならない。

　――…だが、今日の仕事はそれだけではないのだ。

「くそっ。久々の農作業はやっぱ疲れやがんな！」

　口にするのもおぞましい言葉で毒づくヒューゴ。
　汗を拭う手には美しい花々。
　億劫そうに立ち上がると、膝に付いた泥を叩いてなまった身体を軽く伸ばす。

「ミスター・ザック！　ローズマリーはこれだけ有れば十分だよな」

　遙か遠方。ザカリア自身も地面に屈み込み、黙々と野草を摘み取っている。
　声に一瞬肩をふるわせるも、無言のまま頷いて見せた。

「わあった。それじゃ、別のヤツを探しに行くからな！」

　わたくしたちがハーブ詰みに勤しんでいるのには訳がある。
　新たに契約したエンブリオ――ブリギット――が選んだのは、彼女を信仰するザカリアであった。

　ザカリアはドルイドと呼ばれる魔術師だ。
　大地より力を借り、未来を予言し、数多の知識を語るもの。
　ただし、熱血に属する人狼が、隠者に属するドルイドとなるのは無理な話だったのだろう。
　彼自身には地の力を借りる才は備わっていなかった。

　彼は専ら“ハーブ”によって奇跡を起こす。
　つまり、質の良いハーブを確保しなければ一切の魔術を執り行うことが出来ないのだ。

「次はなんにすっかなー」

　幸か不幸か、ここは見事に大草原。
　人の手の入らぬ美しい自然は、選べる程度にハーブが生えそろっている。
　ザカリアと、ドライアドに属するヒューゴの手にかかれば、この大草原の中から“意中のハーブ”を見つけることなど朝飯前らしい。
　――無口が過ぎるほどのザカリア故に、わたくしの対応はヒューゴに丸投げしているけれども。

　手伝いを名乗り出たものの、余程酷い手つきなのだろう。
　わたくしを見下ろすヒューゴの視線はあきれかえっている風に見える。

「ばあさん。アンタみたく身分の高いヒトなら、ハーブ詰みなんてやらなくて良いんだぜ？」

「一人で待っているのはつまらないのよ。何か手伝っていたいの」

「……わぁったよ。それじゃ、今度はこれと同じヤツだけ摘んでくれ」

　渡されたのは一本の草。
　わたくしの脳裏に過ぎるのは一点の疑問。

「さっきのと何処が違うのかしら」

「あのなあ、どこもかしこも全部違うだろうよ！」

「……そうかしら？」

　二つのハーブを見比べるも、やはり違いはよく分からない。
　ひっくり返したり、くるくるまわしてみるものの――どう見ても同じハーブに見えるのだ。
　ヒューゴは「どうしようもないな」と言わんばかりにため息を零している。

　わたくしたちの仕事は当面終わりそうもなかった。

婦人の溢れんばかりの期待に応えられないことを申し訳なく思ったのだろう、
小さく、ごめんなさい、と呟いた。

オオカミの動きに一瞬体をこわばらせたが、驚いただけで、怖れているわけではないようだ。
むしろ、婦人が出した取引の条件の方に動揺を示す。

ぎゅっと下唇をかんで、うつむいた。自分の非力さを身に染みて感じているようだ。

現れた象の化け物は、広げられたハーブの上をズシンズシンと歩いてくる。
その様子を見るや、ポイントマンの表情がみるみる怒りにゆがんでいく。

ドルイドがポイントマンに触れれば、双方の姿は一瞬で消え失せた。