――オブドルスク領、地図になき村の教会の講堂。

時刻はすでに、もう少しで深夜に入るであろう頃だった。
凍てつく空気の中で、吐く息だけが白く残る。

「……何を仰っているのですか？」

イネッサには神父の言葉が受け入れられなかった。
無理もない、自分が戦争に関わるだなんて考えたこともないのだから。
戦うのは兵士の仕事で、弱い自分は関係ない話だと考えていた。

「驚くのも無理はない、隠す事などないのだよイネッサ。
　私達もか弱い君に、このような頼みなどしたくはない。
　ただ、君の大切なミハイルの事を考えると
　他の人に頼むわけにはいかないと思ってね。」
「ミハイルが……何かあったんですか？」

彼女の怯えた思考回路がひたりと止まる。
イネッサが落ち着いたのを確認して、神父が語りだした。

「ミハイルはどうやら、『干渉者』に誑かされているようなんだ。」

その言葉を聞いて、イネッサは目を見開く。
だが不思議と心に小波がたつことはなかった。
『ああやっぱり』と、彼女は心の中で呟く。

手紙の中のミハイルはとても楽しそうだった。
あまり愚痴を吐くこともなく、一揆での出来事を書き綴っていた。
流石にあの年増に懸想する程の馬鹿とは考えたくないが、
戦場に出しゃばる女など売女に決まっている。

「このままでは革命どころか、彼は誤った道に進んでしまうかもしれない。
　正気に戻すことが出来るのは、恐らく君だけなんだよ。
　ミハイルを救ってやってはくれないか、イネッサ。」

神父は真摯な目で訴える。
少なくともイネッサにはそう感じられた。

「だが相手は『干渉者』、徒手空拳では返り討ちに遭うのがオチだ。
　分割世界から召喚された『干渉者』は決して滅ばない、そんな話も聞く。
　『干渉者』には『干渉者』で対応するしかない。」

後ろに控えていた細身の男が口を挟む。
高級そうな身なりだが、不気味な雰囲気を漂わせている。

「神父様……私は貴方様の事は信じています。
　しかし、後ろの男の方の言葉を信用していいものかどうか。」

男の眉間に皺が寄ったような気がした。
神父は穏やかに微笑んで、答える。

「ああ確か、あのお方とは初対面だったね。
　こちらの方はね、我ら『社会主義労働党』の主催でいらっしゃる方だ。
　『干渉者契約』についてとても含蓄が深く、
　我らにも沢山の援助をくださる。めったな事を言ってはいけないよ。」

とても偉い人だと聞いて、イネッサは内心焦った。

「今大切なのは、一刻も早くミハイルを解放してあげる事だ。
　君の言葉しか、おそらく彼の心には届かないだろうからね。」

神父はそう言い含める。
そうだ、今はこんな些細な事は問題ではない。
あの売女から恋人を引き離し、目を覚まさせなければ。

――彼を救ってあげられるのは、私だけ。

イネッサの心に静寂が満ちた、もう迷うことはないだろう。
顔を上げ、前をまっすぐ見据えて、彼女は第一の言葉を紡ぐ。

「私、『干渉者』を召喚します。やらせてください。」

薄い雲に隠れていた月が姿を現す。
天窓から照らされた床の魔法陣には、すでに数多のネクターが散らされていた。

◇◇

目の前には、無機質な棺が置いてある。
ここから私の英雄が出てくるのだ、
そう思いながらネクターの花弁を左手で掴み、月光に掲げる。
思ったより緊張しないものだと、イネッサは感じた。

憶えた召喚呪文の詠唱を開始する。
下から風が巻き起こり、光り輝くネクターが宙に舞った。
左拳が輝き、彼女の声と共鳴する。
呪文が終わると風が収束し、大きな人型となった。

――これが、『無貌の蒼頭』……。

オブドルスク領に住まう、エンブリオの守り手だと聞いた事がある。
形は持たないが人の言葉を理解し、
時には意志疎通する長寿で賢いエンブリオ。
そんな話をミハイルが居ない間に神父から聞いていた。

『無貌の蒼頭』は全ての風を束ねると、そのまま棺の中へ吸い込まれていく。
そして、全てのものが沈黙した。

数刻ほど経っただろうか、滑らかに棺の蓋が上げられてゆく。
中から出てきたのは、仕立ての良い服を来た長身の男だった。

「素晴らしい！この召喚術は完璧だ！！」

召喚術の2度目の成功を見て、猛禽類の目をした男は歓喜した。
この術はまさに自分が対価を払うことなく、大きな戦力を与えてくれる。
宝物を見つけたように、男は打ち震えた。

対して棺から出てきた男は、不思議そうにその言葉を聞いていた。
あたりを見回し、自分が今どこに居るのかを考える。

「……汝は、英雄なりや？」

棺の中で立っている男に、イネッサは問いかける。
細身で柔和に見えるその男は、とても戦士のようには見えなかった。
どちらかというと知識人なのではないかと、
彼のかけている眼鏡を眺めながら思った。

相手は暫く何も答えなかった。
まじまじとイネッサを見つめて、何かを考えている様子だった。
そして、ゆっくりと口を開く。

「ここが何処かは分からないが、
　恐らく僕は、君が望んだ者なんじゃないかな。」

君が望んだ者、その言葉がイネッサの中に滑り込んでゆく。
呆けている少女に、男は柔らかく微笑んだ。

「まだ分からない事が沢山あるから、いろいろ教えて欲しい。
　可能なら守らせてくれないか、君の事を。」

物語に出てくる、姫を守る騎士のようだ。
少女はこの優しそうな騎士を前にして、自分が姫でありたいと夢想した。


――これはきっと、神様がくれた運命の出会い。


彼が『干渉者』で良かったと、その時イネッサは強く心に刻んだ。


◇◇◇


イネッサ達に与えられた時間はあまり無かった。

次の日には支度を整え、指示された国王の兵士に手紙を渡せという。
何故敵の兵士へお使いに行かなければならないのか尋ねたが、
武で争うだけが戦いではないと、貴族の男は答えただけだった。

手紙を渡したら、そのままミハイルを探せば良いらしい。
手続きなどは一切を貴族と神父が担当する手筈となった。
傍にいた『干渉者』は、
貴族と神父を冷めた目で見ながら静かに皆の話を聞いていた。

準備でイネッサは駆け回ったが、
力仕事などは全て『干渉者』が引き受けてくれた。

「そんなに無理をしたら君の身体が心配だ、
　僕に出来る事があったら何でも言って欲しい。」

イネッサが困っている時、それを察して助けてくれる。
何も言わなくても、彼女が苦労しないよう配慮してくれている。
ずっと大事にしてくれる。こんな男の人に出会った事がなかった。

――私は、彼と出会えてなんて幸せなんだろう。

彼女の心は、未だかつて味わった事のない幸福感に満たされていた。
これで戦場へ行くのではなかったら、最高だったのに。

とりあえず今は、ミハイルを元通りにしなければならない。
彼に関わった者として、
売女から救うのは自分に課せられた義務であるとイネッサは強く誓った。

◇◇

この『干渉者』の事をもっとよく知りたい。
荷造りの大詰めを二人でやっている時に、イネッサは思い切って聞いてみた。

「御前様は分割世界にいらっしゃった方かと思いますが、
　そろそろお名前を教えて頂けないでしょうか……ちょっと不便ですし。」

『干渉者』に聞かれてメルンテーゼの世界や
何故召喚したのかという経緯はたくさん話したのだが、
聞こう聞こうと思っていて、肝心の名前を尋ねることを忘れていた。

「そういえば自己紹介がまだだったね。
　準備に忙しくてすっかり忘れていたよ。」

そう言って彼は、柔らかく笑う。

「もう一回自己紹介しますが、私はイネッサと申します。末永く宜しくお願いします。」

少女の熱っぽい視線を男はやんわりかわす。

「僕の名前は、近衛　東。アズマと呼んでくれたらいいよ。」

男は前髪をかきあげる。
この大人の雰囲気を持つ年齢不詳の男を独占できる喜びで、
イネッサの心は大きく震えていた。


To Be Continued......