のどかな川、のどかな田畑。
カリンカランが生まれた町は、そういう町だった。
深緋が丘からはそう遠くは無く、妖精達の住まう丘の情報も定期的に入ってくる。
―あの丘に近づいてはいけないよ、また一人神隠しにあったんだ。
―いや、近づきたくても近づけないさ。あそこはそういう場所なんだ。
深緋が丘は町の人々に美しい景観を与え続けてはいたが、好き好んであそこへ行こうとする者は誰ひとりとしていなかった。
ネクターの咲き誇る、神隠しの丘。
子供だけが行くことのできる、二度とは帰って来れない丘。


妖精達の使者となった少女が出現するまでは、深緋が丘は畏怖の対象であった。


その町は比較的に栄えている方で、町には何でもかんでもがあふれていた。
パン屋、仕立て屋、果物屋、宝石店―。
ただし、一つだけしかないものもあった。それは町医者であった。
彼は非情に腕の良い医者で、毎日多くの患者を受け持ち、そして彼らを笑顔で送り出していた。
急に産気づいた女の子供を取り上げた経験もあった。
誰にでも信頼される腕利きの医者。そんな彼にも治せない患者がひとりだけいた。

少女の名前はポーリーン。
腕利き医者の一人娘。
なんとも皮肉なことであろうか。医者の娘は不治の病。治せる者は誰もなし。
医者も散々手を尽くしたが、病状が良くなることは無かった。
そして峠を迎えたある夜、少女は一人ベッドを飛び出した。

向かった先は丘の見える薬草園。
本当はあの丘に行きたかったが、鈍った両足は言うことを聞いてくれない。
その場に倒れこんだ少女は、傍らのハハコグサに語りかけた。

ハハコグサは答えない。
ただただ風に揺れるだけ。

ハハコグサは答えない。
ただただ夜空を仰ぐだけ。

そのとき、ハハコグサが。
夜にも関わらずざわめき、ふわりと蕾が開いてみせた。

初めてその妖精を見たとき、ポーリーンは天使だと思った。
自分の命はここで尽きて、もう迎えがきてしまったのだと、そう思った。
それでもその小さな少女は暖かく、自分もまた、さっきまであんなに冷え切っていた体が熱を持っていることに気づく。
息が苦しくない。
ポーリーンは驚いて、その妖精に問いかけた。

―家に帰ったポーリーンは、両親にこっぴどく叱られたあと涙で迎え入れられた。
そして彼女の小さな友達は、彼らからの感謝を受けることとなった。
それから少女はその友達と、いつでも一緒に暮らすことにした。
少女は友達に名前を与えた。
毎日窓から眺めていた、近くて遠い時計塔の鐘の音をもらい、妖精をカリンカランと呼んだ。
カリンカランは治癒の能力を持つ妖精だった。
彼女と契約を結んでからというもの、ポーリーンは急な発作に襲われることもなくなった。
いつしか、ポーリーンは家から時計塔までも、歩いていけるほどに回復していた。

彼女が元気になるほどに、カリンカランの姿は虫のような醜いものになっていった。
一糸纏わぬ黄金の肌は、緑色の皮膚に覆われ、鳥の翼のようだった羽も脈翅めいたものへ変わって言った。
それでもポーリーンはカリンカランを愛していた。
はじめて出来た友達だったからだ。

とうのカリンカランはというと、のんきなもので、

などと答えるばかりだった。
実際嘘は答えていないつもりだった。

それでも、だんだんポーリーンは怖くなってきた。
このままでは、カリンカランが本当にただの芋虫になってしまって、自分と話せなくなるのではと。
そして考えたことが、ほかの治癒の力を持つエンブリオとの契約だった。
カリンカラン一人に治療を任せているから、きっとカリンカランに必要以上の負担がいっているのだ。
そう考えたポーリーンは、治療を得意とするエンブリオを調べに調べた。

最期の最後の確認として、ポーリーンは問いかけた。
カリンカランは笑顔で答えた。

それから少女の行動はあっという間だった。
ウィスプ、ウンディーネ、フェアリー。
ポーリーンの顔色はますます良くなっていった。
治療の効果もあるが、友達が増えたことが何よりも嬉しいようだった。
スレイプニル、マーメイド、カッパ。
次第に体調のむらも無くなり、学校へも通えるようになった。
彼女は生まれて初めて、人間の友達を作ることに成功し、その様子をエンブリオたちに語った。
ハニワ、メイド、ユニコーン。
彼らと契約する頃には、彼女はすっかりもう普通の少女としての生活を送れるようになっていた。

しかし、エンブリオたちは口を揃えて言うのだ。
「もうこれ以上、私たちのような友達を増やそうとしてはいけないよ」と。
ポーリーンには意味が分からなかった。
ぶーたれた表情で、一番の友達にこう問いかけた。

その問いは、カリンカランにも分からないものであった。
カリンカランはこう答えた。

そうカリンカランが答えると、少女の顔がぱあっと明るくなった。
そして、彼女の小さな頬にキスをすると、ポーリーンは自分のベッドへと帰っていった。

翌朝。
そこには冷たくなったポーリーンと、戸惑うシツジの姿があった。

死因は契約過多による生命力の枯渇。
そんなことは誰でもわかっていた。
分からないのは、ずっとポーリーンと暮らしてきた、カリンカランだけだった。
「どうして契約数を増やしてはいけないのか」。
それを初めて理解したときには、あまりにも何もかもが遅すぎた。

カリンカランはそのまま、家を飛び出した。
誰にも別れを告げずに、その身ひとつだけで。
考えがあったわけではない、ただその場の現実と、自分の罪から逃げたかっただけだ。
これではまるで自分が殺したみたいじゃないか。いや、自分が殺したのだ。
昨夜の彼女の問いに肯定で答えなければ、きっと彼女は―。

もう人間に関わるのをやめよう。
自分は契約者を不幸にしてしまう、してしまった。
そんなことを考えながら飛び立ったカリンカランが行き着いたのは、かの妖精の丘だった。


生まれ変わったら、妖精になりたかったの。


その言葉を信じているわけではなかったが。
もしかしたら、影響されるものもあったのかもしれない。
それも神のみぞ知る話。