水辺を越えて、向かったのは森の奥。『主』が一度垣間見ただけの建物。恐らくは、城。
　その外周、入り口の全く見つからない場所を歩いているうちに、一度か二度か会った二人と再会したが、彼は彼のままで応対していた。先に仲間と顔を合わせた時には主の色が見えたのに、今度はそれすら無かった。
　――色を、意識するようになっている。それは眼に見えるだけのものではないけれど、色としか言えないものだった。それがどのようなものなのかは、自分が言葉を知らないからか、言い表す事もできないけれど。
　彼は、『彼』なのかどうかも分からなくなって来た。城での一戦、探索を終えて再び一人に戻った後は、適当な場所でまた一夜を明かす。流石に乱れて来た髪を下ろして、外套を身体の上にして、岩陰に初めて横になるのを見た。ウィフトがその傍に、テラがどうしてか懐に潜り込んで眠っているのを、少し離れたところで一夜ずっと眺めていた。
　朝早くまでそうしていた彼は、眼を開けて、やはりすぐに移動を始めた。違うのは髪を上げずに下ろしたままという事で、その人が次に足を向けたのは地下だった。主が居心地の良くないと零していた場所。
「――シャール」
　不意に、名を呼ばれて空中から姿を現す。そうしようとしたわけではない、何故か自然とそうしていた。不審に思いながらも青い背との距離を詰めれば、その人はそれまで淀みなく進んでいた歩みを止めて、片足だけを引くようにして振り返る。いつも器用に扱う方ではない『右手』を、差し出した。
「こちらに」
　疑念が浮かぶ。その手の近くまで降りていけば、その手の平にやんわりと捕えられてそのまま胸元に抱えられる。まるで人間が子供をそうするように。
『……何か？』
「少し」
　ウィフトがその人の足元で小さく鳴く。ちらと翠が見下ろして苦笑する。手が埋まっているから、そうするしか無いのだろう。
『……別に、勝手に離れなどはしませんが』
「心配している人がいますから」
　思わず、言葉を呑み込んだ。返答は予想していなかったし、返って来た口調も、その声音すら違う。見上げれば、やはり表情には何の別も見えないまま。
　何度か、逡巡を経て。それでもう一度、問いを投げかけた。
『……あなたは、誰なのです？』
「『　　　　　』」
　口が開いて何か、音が漏れる。だが聞き取れない。首を傾げれば、再びの苦笑。
「貴方達の主の同郷ですよ」
『……主、は』
「眠っています。眠らせた、が、正しいのですが」
『何故』
「鍵が外れかかっていましたから」
　意味が分からないと、その返答で閉口してしまう。それすらも予想していたのだろう、その人はやんわりと、苦笑とは違う笑みを浮かべて、今度はゆっくりと地下牢の狭い通路を進んでいく。
「……『ディアリアド』の夢は、本来であれば貴方達には見えない筈でした」
　声を張っているわけではないのに素直に耳に届くそれは、しかし響きはせずに手元で消える。狭い道から、脇にそれる横道へ。迷う事無く進んでいく。
「一度、大きな事があったようですね。共鳴が次第に酷くなっていましたから、何かあったのだろうとは思っていましたが」
　向かっているのは、牢の奥。元はここにいたから、大方の作りは分かっている。――そこまで思って、はたと顔を上げた。その人は言葉を続ける。
「それが普通のものなら、何も問題は無かったのですが。……クロは我慢してしまうから」
　眼を瞬く。記憶を辿って、それで分かった。
　相変わらず手の平に捕えられた身体を、少し揺するようにして、こちらを向いた翠を見返す。そうしながら、言った。
『大丈夫です。強制的な契約破棄は、主からでしか、できませんから』
「……そう、良かった」
　契約がある事、破棄ができる事。その二つを伝えれば、その人は安堵したように呟いて手を離してくれる。ふわりと浮かび上がって、距離は離さないままその歩みに追随する。
　――これが主の持つ『呪い』かと、どこか薄暗いような気持ちが沸き起こるのを押さえ込む。そのまま進んでいくうちに、その人は不意に足を止めて、それで壁に背を預けた。どこかへと向かう間に足を止めるのも初めてで、その意図も何となく理解できたから、何も言わずにそれに従う。
　沈黙の後に、その人は小さく呟いた。
「……自由な事が一番です」
『――……髪、結いましょうか』
「お願いできますか」
　どうしても苦手で。何も言えなくなって苦し紛れのそれに、その人は答えながら苦笑する。取り出された紐を受け取って、それで青い髪に触れた。





　そうだ、と思い立つ。外套の中から、手帳を取り出した。
　羅列され続ける文字の終わりを探して開けば、白い面には今まさに文章が書き連ねられている。それを見て、ペンを取り出して、そのページの最後に滑らせた。
　――Ex, en Endiig.
　そう短く書き記せば自動初期の文字が止まる。次いでページを何枚か前へと繰る。該当の部分の最初と最後に、それぞれ一つずつ対になる記号を書き込めば、囲まれた文章が全て消え去った。それを確認してから、手帳を閉じる。
『……何を？』
「……証拠隠滅」
　シャールの問いには、短く答えて。それで手帳とペンを元通りに仕舞う。
　――これくらいは許してくれるだろう。元を正せば自分の不手際なのだから、少しくらいは、苦労した方が良い。

　
　得物を掲げ、振り落とす。

通せないと言った紫の髪の青年に、決してよい顔は出来なかった。
彼の言葉は一揆を阻もうとする者の言葉に間違いなくて。

同時に、確かに漂う気配に、退くわけにはいかないと、杖を強く握る。

笑った様な表情のまま。瞳の憂いは隠せず。呟きはとけて、消える。