屋敷の中は酷く荒れていた。開け放たれた扉の先、板張りの廊下はむせ返るほどの鉄錆の匂いが充満していた。襖を食い破るように飛び散った血糊、血だまりは意思を持つように表面が揺れている。つい先ほど、そこで命が絶えた証が確かにそこにあった。明らかに異様なその屋敷の中を、男は平然と歩いていた。ひとつふたつ、そしてみっつと転がる屍を数えながら、これは祖母で、これは曽祖父で、これはきっと若妻で、などと家族構成を組み立てていた。
「ひどいひどい」
笑みを含みながら男は呟いた。年の頃は三十を間近にしているほどだったが、髪は白く辛うじて黒髪がまばらに視認できるほどだった。瞳は右が濡羽色、左が艶やかな石をはめ込んだかのように色づいた赤色をしている。安物の羽織を引っかけていたが、装いには頓着しない様子だった。
視線の端、奥座敷へと続く廊下に人の気配を感じ、男は猫のようにしなやかにその背後を取っていた。前方を行く人間は男に気付く様子もなかった。痩身の老人だった。数歩後をついて歩いていても、呼吸の荒さが伝わってくる。老人が後ろの男に気付きもしなかったのは、自らの目的を果たすことで思考がはちきれんとしているからだろう。男はまた笑みを浮かべる。老人の右腕には、人を薙ぎ払うのに十分な得物が握られていた。
奥座敷の先、細い廊下で繋がった離れへと興奮した足取りで向かう老人を見れば、男はこの騒動――男からすれば茶番以外の何物でもなかったが、それが終わりを告げるのだと知れた。
――これで終わりだ。
（……なるほど、本丸はこの先と）

離れの扉を開く音がする。老人が中へ入っていくのを確認してから、壁にひたりと張り付き首を伸ばして様子を探った。
視界の端には湿気のせいなのか少し黒黴を帯びた梁が見えた。いや、違うと男は即座に訂正する。あれは格子だ。なるほどこれが座敷牢かと男は話に聞くだけだったそれを見ることが出来た幸運を噛みしめた。牢があるのならば当然そこには人、もしくは何かがあるのだろう、男はそれに興味を持たずにはいられなかった。がちゃがちゃと錠前を外す忙しない音が聞こえ、そろそろ頃合いかと一歩踏み出す。
老人が鍵を開けるのと、自分自身が握っていた得物に腹を深々と貫かれるのはほぼ同時だった。
背後から腕を伸ばし、得物を持つ手を掴んで腹に向けて刺す。流れるような手つきで、男は老人をあっという間に死の淵へと追いやった。流れもさることながら、それには躊躇いも戸惑いも見受けられなかった。
声にならない声でもがき苦しむ老人を蹴り飛ばし、牢の前から無理やり移動させる。
「大丈夫だ爺さん。心中すんのも殺されんのもたいして変わりはせんだろうよ」
一応は、自分で心中するような形にしてやったのだ。おかげでいくらか手は汚れてしまっていたけれど。
シニカルな笑みを浮かべ、軽い口調で言ってのける。
老人はもう何も考えることが出来なくなったのか、特に反論は出なかった。そのうちぴくりとも動かなくなる。

牢の中には人が居た。
染み一つない夜着を纏い、牢の中央にただ坐している。目の前で人が殺されたというのに、その人物は呼吸一つ乱すことなくただ床へと視線を落としていた。牢には男の部屋にある煎餅布団よりもずっと上等な布団があるだけで、その他には何も無かった。
酷く美しい少年だった。この中にあってやつれることも憔悴することもない様子だった。流れる黒髪と、それに隠されるような茶色の瞳、女のそれより白く滑らかな肌。
その顔には表情と呼べるものがないこと以外は、整えられたと言う他ない容貌だった。牢にとんでもないものを隠しているのかと思っていた男はひとつ口笛を吹くと、少年に格子越しに声をかけた。今しがた、目の前で人を殺したことは忘れているかのようだった。
「出ねえのか。鍵は爺さんが開けてくれてるぜ」
返答は無かった。
「混乱してるのか？　……俺は悪者じゃあないぜ」
男は特に気にした風でもなく、一人で会話を続けている。座ったままの少年に合わせるべく、自分も膝を折り目線を下げた。敵意が無い事を示そうとしたが、男の手は老人の血で濡れていた。
「俺かい。そうだな、リンと呼んでくれ。名字が好きじゃあないんだ」
「……………………………………」
「この爺さんはまさに今日、一家を全員ぶっ殺して……勿論お前さんもだ、心中しようとしてたからよ。心中ってのがどんなもんか、気になるじゃあねえか。なんで、ちょっと見物に」
芸のひとつでも見に来た、という軽い口調で、男――リンは言った。そうして、牢の扉を開け放った。それでも一向に少年は自らの意思で外に出ることはおろか、身じろぎひとつしなかった。それを見てリンは逆に自分が牢の中に入り、少年を距離を詰めるに至った。

「爺さんが遺書を残してた。……何々、一族の堕落と呪いを心から恥じ、呪われた血でそれを償う云々……曾祖母が首を括り入り婿が海に身投げ、娘……嫁か、嫁は狂人になり……ははっ、こりゃあ凄いね」
屋敷に入ってすぐ、誰でも目につくように置かれていた遺書をあまり興味がなさそうに流し読みする。なるほど、これだけ身内に騒動があれば一族の沽券に係わるどころの騒ぎではないだろう。
「うん？　何で殺したかって？　……牢屋の中にどんな化物を飼ってるのか見たくなってよ。さっきも言ったが、心中しようとした人間に介添えが居ようと関係ねえだろ。結局は死ぬんだから」

リンは遺書を読む傍ら、質問に答えていた。そこに質問したと思しきものは誰一人として居なかったというのに、心底丁寧に受け答えをしていた。内容はいささか過激で、倫理観が著しく欠如したものではあったけれど。
「思えばこれは、ある時に孫が豹変したことに起因してならない。太陽のように明るかったのが、心が抜け落ちたかのように……ああ、これがお前さんのことかい。ほー……最後にこの呪いの元凶を消し、私も後を追うことにする……ねえ」
目の前の少年の情報をいくつか得られたことで遺書には完全に興味を失ったらしく、適当な場所に放り投げた。ちょうどそこには老人が作り出した血池があり、遺書は赤に染められていく。――恐らく、判別が難しくなるだろう。

「なるほど、呪われたってことでここに閉じ込められていた訳だ」
座敷牢に隔離され、なかったこととして封じられるように生を送っていた――遺書を読み捨ててしまったリンに、それがいったい何時から行われているか確認する術はなかった。
窓の無い切り取られた空間に生きる。その生を自問する時間をたっぷりと与えられていることと同義だった。向かう先が滅びであること、それは同じ境遇に置かれているようで気に入って仕方がなかった。

「お前さんは苦しくて仕方がないっていうのに、酷い話だな」

リンの言葉に、少年の指が微かにひくりと動いた。表情は何一つ変わりはしなかったが、薄い呼吸以外で初めて見せる反応にリンは少しばかり満足した。赤色の左目が微かに細められる。
「何で分かるかって？　お前さんはよくものを尋ねるねえ」
板張りの床にどっかりと腰を下ろし、舐め回すような目つきでリンは少年を見定めた。不快感を露にすることもなく、少年はただただそれを受け入れていた。ひとしきり視線を送ることに飽きると早々に止めてしまう。リンは、物事に対して何事も飽きっぽいようだった。

「爺さんが心中しようと思ったことも、最後にお前を狙おうと思ったことも、お前さんが苦しいと思っていることも……手に取るようにわかっちまってるような風だと思わないかい、なあ」
「……………………………………………」
少年が一言も発しない中、リンが一人で話しかけている姿は見方によっては滑稽だった。当人は全く気にしていないようで、むしろリンの振る舞いは目の前に居る少年と会話をしているかのようだった。
まるで、人の考えが手に取るように分かっているよう――リン自身の言葉には、ある種の信憑性があった。
リンの左目は僅かに発光の兆しを見せていた。赤色の光を湛えていると、何もかもを見透かされているかのような錯覚を感じるようだった。
「……お前さんは不思議だな。心では色んなことを考えていて、それを伝えたくて仕方がなくて……でも、それが出来ないんだな」
ぽつり、と言葉が紡がれた。


＊＊＊＊＊＊


いつの間にか室内は最初よりも幾分暗くなっていた。屋敷に訪れたのが夕刻であったから、日が落ちて夜がやってきているようだった。
リンはそれから少し、時間にしては数分だが饒舌な彼には酷く長い時間だった――間を置くと、それまで一度も触ろうとしなかった少年の腕をぐいと引き、置物のように坐していた体勢を崩した。
「お前の心は氷に閉ざされている」
それまでとは打って変わり突き放すように冷たい言葉が降りかかる。スイッチでも押したかのように、リンは飄々とした話し方ではなく静かで高圧的な態度を取っていた。囁くように紡がれる声が絡みつくようだった。
声は酷く冷たかったけれど、リンの言葉は事実を言い当てているようだった。それを淡々と口に出しているだけだ。
「何だ。話し方が変わったくらいで驚くな。……話し方だけじゃない。夜は俺の時間で、昼はもう一人の時間なだけだ」
変わっているのは話し方だけではなく、リンの瞳――右が濡羽色で左が赤色だった――その色が右が赤色で左が濡羽色になっていることもだったが、目の前の少年がそれに気づいたかどうかは分からない。
「気に入った。俺と共に来い」

「……お前には俺が必要だろう。お前の心を汲み取り、理解する者が」
リンはそう言い放つと、無理やり担ぐような形で少年を牢から、離れから連れ出していた。

「お前の母親はお前に似て美人だったな。……白鳥みたいに美しくて上品だと評判だったんだろう？」
リンは屋敷に入ってすぐ、母親だという死体を目にしていた。街を歩きひとつふたつ、あるいはそれ以上収集することの出来た噂を思い出した。白鳥のように美しいというのは、リンにとって褒め言葉にはカテゴライズされなかった。
「お前に絶望したんだな。白鳥が溺れると水面の下にあって激しく泳ぐ足が見えてしまう。そのままもがき続ければ溺れ死ぬのも無理はない。お前に絶望したことで、母親は狂ったんだろう？」
抱えられた少年は、数センチ動かしたかどうか、というくらいの小さな頷きを返した。
会話をすることで感情に蓋をしている氷はじわりじわりと溶けていくのかもしれないというリンの予想は概ね当たっていた。まだ母親の愛を欲す年齢だろう少年が、それでも母親を愛していたであろうという予想も。


「母親の死に顔を見ていくか？」
「……………………………………………………」
「いや、止めておくか。見るに堪えなかったしな」
そう言うと、入り口にある女の死体を悠々と踏み越えてリンは屋敷を後にした。