フローラルな香り。柔らかな触感。
顔に張り付く、素敵な心地よさを運んでくれた布をクリスは真顔のまま剥ぎ取った。

炎をつかさどるエンブリオの名前を呼び、

癒しをつかさどる天使が応える。

いないと認識していたはずの存在の名前を挙げてしまったクリスは、
担任の教員をお母さんと呼んでしまった恥ずかしがりやの子供のように赤くなってうつむく。

ジーンに言われ、はっとクリスは白い布切れから手を離した。
その布が五感に訴えてくる情報は間違いなく「綺麗」なのだが。

「けらけら」という音が本当に聞こえてきそうな快活な声で笑うジーンの横で、
クリスは風船のように頬を膨らませた。



ここは城内の兵舎。クリスにとってはじめて足を踏み入れる場所だ。
「せめて殺風景になりすぎないように」という意図が見え見えの街路樹が、
堅牢で無骨な建物のそばでむなしく等間隔に並んでいる。
産業的かつ機械的な空間に、あちこちに転がっている多種多様なごみが嫌な生活感を加える。
兵舎の窓枠から窓枠へと綱へと繋げられている綱には、
なぜか兵士たちの白い下着だけが大量に干されていた。

ジーンが言うには。
クリスが契約している対象はジーンただひとり。
これまで契約してきたその他のエンブリオの姿はクリスが自ら生み出した幻影であり、
声などの人格部分はジーンが付加させたという。
実際のエンブリオとしての能力は、
これまたクリスの力によりすべてジーンに上書きされている、と。

クリスはジーンのことを信頼していたし、
彼女が自分の味方であることも確信している。
また、彼女の説明に大きな嘘はないだろうということも推測できる。

「嘘ではない」ことと「真実」は別物だ。
クリスは、ジーンの弁に何かしらの秘密があるとも感じていた。

夕食の献立の確認でもするかのような気軽な返事。

言うが早いか、ジーンは弱い光の波を上に向けて放つ。
波は物干し綱のほつれていた部分を刺激し、切断。

当たったら死ぬかもと言わんばかりに
落下する下着の山を必死に避けるクリス。

落ちてきた下着のうち一枚をジーンが掴む。

クリスはジーンの説明を半分も理解できなかった。
言っている意味が分からないのではなく、言っている意味を分かれない。

こともなげな天使の口調。しかし、彼女の言う通りなのかもしれない。
クリスはこれまで、カリーナという小さな世界の中で生まれ育ってきた。
だが、故郷は無数に存在する分割世界のうちのひとつにすぎず、
メルンテーゼは未知のオンパレード。
それどころか、カリーナは本当に存在しているマインドヘッジという世界を
隠すための仮初の世界であったことという事実も知らされた。

クリスが悩んでいることも、
この天使にしてみれば、ただの些事や茶飯事に過ぎないのだろうか。

ジーンは、手に持っていた下着をポケットにしまおうとしていた。

クリスがジーンから取りあげたそれは、すでに下着ではなく。

地味だが細やかで躍動感のある花柄のついた白いハンカチへと「作製」されていた。
したり顔でジーンにハンカチを押しつけるクリス。

にごった頭を突き抜ける、バラードのように柔らかな音律。
屋根の上から聞こえてくる猫の鳴き声だ。

話し相手の姿が風斬り音だけを残して消えている。

軽い音を立てて屋根の上に降り立つクリス。
彼女の足元には円錐型の刃物が突き刺さっていて、
そこから伸びた鎖が右の篭手に連結されている。
「オーヴァーフロー」。クリスがあらたに作製した機械化魔刃。
戦闘に使用するに留まらず、クリスはこの武器を便利な移動手段としても活用していた。



『ピッ』

『ピッ』

先ほどまでの不機嫌さはどこへやら。
クリスの顔は喜びでいつになく綻んでいた。

屋根の上で2匹の猫がのんびりとくつろいでいる。
兵たちに慣れているからか、クリスが近寄ってもたじろきもせず同じまま。
ひなたぼっこをしている茶色い毛交じりの白猫の横で、
黒猫は懐に小さな動くモノをいくつも抱え込んでいた。
覗き込んで見ると、それは子猫たちだ。

にゃあにゃあと幼い鳴き声をあげる小動物に目をぱちくりさせるクリス。
黒猫はそんなクリスを睨み殺さんとばかりに充血した目で捉えているのだが。

子猫は3匹。
完全に黒い猫と、白黒斑の猫と、三毛猫。

激しい動悸に胸を押さえる。

色とりどりの猫たちを間近に見たクリスは、
「きっとこの3匹は黒猫と白猫の子供たちなのだろう」
という、疑念にも満たない推測を頭に浮かべた。
それを証明するために、クリスの情報解析能力が
目の前の猫たちの遺伝情報を対象に勝手に始動したのだ。

クリスはいまだにこの能力を進んで使おうとはしなかった。
目の前の美しい世界をどこまでも無機的に分析する。
それはまるで、これまでの「人間としての自分」の完全否定。

未遂に終わった解析の副産物として、クリスはそばの煙突の陰にひそむ生命体を感知した。

先ほどの猫たちとはまた違う、青白い毛並みを持った子猫である。
クリスに対して警戒心をむき出しにする青い猫。
しかし、近づくクリスに怯えた目を向けても抵抗することはできず、
あっさりと腕の中に納まってしまう。

言葉は通じないと分かっていても、つい話しかけてしまう。
子猫はすぐにクリスへの抵抗の意志を失い、
だらりと体をクリスの方へともたれかけた。

クリスの作製能力では、無機物から生命維持活動に必要な栄養素を含んだ物質……
いわゆる「食べ物」を作ることはできない。
兎にも角にもこのままではいられない。
オーヴァーフローを屋根のへりに突き刺し、
子猫を抱えたまま鎖を伸ばして地面に降り立つ。

聞きなれた声。
ベンチに寝転がり、欠伸をしているだらしない天使がいた。

ジーンがクリスの腕の中の子猫に目を向ける。

エンブリオ・ホワイトタイガーの子供はジーンを見つけるや否やクリスの腕から飛び出し、
一目散に彼女のもとへと駈け寄っていく――

明確な敵意のこもった声に凍りつくクリス。
しかし、クリスはこれまで聞いたことのなかった冷ややかな声色だけに驚いたのではない。
翼で宙に浮いていながらもどっしりと地に足をつけているように揺るぎなく、
一分の隙なく敵対者に構えている。出で立ちすべてが普段と別物なのだ。
彼女に別の人格が憑依したのではないか……そう思えてしまうほどの劇的な変化。
直接相対しているホワイトタイガーが感じる恐怖はクリスの比ではなく、
全身の毛並みが逆立ちその場で硬直してしまっている。



　　　　　　　　　　　　　　去れ



ジーンの視線がまっすぐにホワイトタイガーを貫き、
弾かれたように哀れな子供は全速力で逃げ出した。

逃げていくホワイトタイガーをあわてて目で追っていたクリスは、天使の一言で我に返った。
目の前にいたのは、紛れもなく元のジーン。
しかし、その変わり身の速さがかえって――

わずかな寂しさを帯びた震える声。
それはいつものジーンでもあり、知らないジーンの一面でもあった。

黒猫が建物の陰へと姿を消し、
白猫は夕日照る表路を進む。

沈もうとしている陽の下。ベンチでうずくまる天使の影が
ゆらゆらと不安定に伸び、闇へ溶け込んでいく。

自分のもとへふらふらと戻ってくる少女の影を遠くに観たジーンは、
溢れ出していた大粒の涙を白い花柄のハンカチで丁寧に拭き、
いつも通りの斜に構えた微笑を作った。

気に入る筈がない。
むしろ気に入る人間が居たら、その人間は特殊性癖の持ち主だろう。

そこまでで一度言葉を区切り、占星術師は君を見てにっこりと微笑んだ

少し首を傾げた後、モクラはまた話し始めた

そう文は言うと、クリスの手を優しく握手するのであった…

クリスの返答を聞き、心配そうに声をかける。

原因がわからないなりに慰めようとしているのか、いつもよりもよく喋っているようだ。

ぽつりと。

目の前にいる薙疾に対してではなく、独り事のように言うクリス。

一方、数字のみで構成される異なる世界を見せられた薙疾はクリスに手を伸ばし──

手の甲を額に当てる。

言って、指を立てた手を近づける。

魔法も、神の奇跡も、高度科学も存在しない並行世界の出身である薙疾は。
先ほどクリスが見せた文字配列の構造世界を「自分のよくわからないもの」として括ったのだろう。

こうして薙疾に対して説明を進めていくごとに、自分の現状を再認識して哀しみを覚える。

こんな自分の「哀しい」と言う感情すら、文字列の変化ですらないのだろうか？

少し長くなった説明の後、薙疾は間考えこむように目を閉じ………

あっさりと言う。

薙疾は、笑顔で続ける。

プリマ は以下を装備！
【自由】 ゆっくりえねりwith異国の紋様（ 装飾 / 87 / 活力1 / 治癒1 / - ）