グレン・ボールドウィン。

　ヴォルフスムーンの大半の人狼は職業軍人である。
　そんな中、彼はきわめて珍しい“元狩人の人狼傭兵”であった。

　狼でありながら銃と弓とを使う者。
　大半の人狼は彼らを嘲りの対象とする。狼としての矜恃を忘れた男として。
　それでも、わたくしの夫をはじめ――銃や弓を扱う当人達は露ほども気は止めない。
　グレンもそうだった。そのほうが効率的に作戦を遂行できるからと。
　そうして、その作戦遂行率の高さ故に、彼の武勇は断壁中に知れ渡っていた。

　彼の属するパックが任務に失敗し、完全に崩壊したと耳にしたのは十数年前。
　彼がロルを訪ねてきたとき、そこに“無慈悲な狩り手”は居なかった。


　逃亡者。過去の亡霊に背を向け続ける男。
　身体ばかりでは飽きたらず、酒によって魂まで弔ったかつての狩り手。

　彼は様々なビールを作り出す。
　わたくしには味すら判らぬ異国のビールすら、彼の手に掛かれば即座に得られるだろう。
　彼が逃げようとする限り、過去は彼を手放そうとはしないのだ。






　鼻をつくホップの香り。
　わたくしの隣に佇むオーエンは、これで何度目かのため息を零す。

　眼下の酔いどれは、わたくしにもオーエンにも気付く素振りを見せない。
　ただただ、永遠にビールの湧き出す魔法のジョッキを片手に、一人で酒宴を繰り広げていた。
　オーエンはたまらず咳払いをする。
　ようやっとこちらに気付いた酔っぱらいは開口一番。

「おう、デズモンドじゃねえか。ひっさしぶりだなー！」

　久々に聞く己の名に、オーエンは僅かに眉をつり上げた。
　“デズモンド”は彼が“ヤードの犬”であった頃の名。もはやアンジニティに葬られた記号でもある。
　それだけに、パックの人狼からデズモンドと呼ばれることを極端に嫌っている。

　だが、所詮相手は酔っぱらい。
　気遣って欲しいと願うことすら無意味である。

「親父さん。あんた流石に飲みすぎだぜ？　もうベロンベロンに酔いつぶれてるじゃないか」

「いいんだよ、オレは！　放っておいてくれってんだ」

「放っておきたいのは山々なんだがなー」

　ちらりとこちらを見る。
　駄目――と、首を左右に振る。
　オーエンは項垂れてグレンの方に視線を戻す。

「俺たちは人間よかずっと頑丈だ。頑丈なんだけどな……親父さんみたいな飲み方をしてたら保たないぜ？」

「ゴタクはいーんだよ。それよかお前も飲め！　デージさんよう。
　アンタの心に巣くってやがるモン――そりゃもう何もかも全部消えてくれるぜ？」

「判った！　飲んでやるから、こいつを最後にするんだな！」

　人狼という生き物は、たいていどうしようもなく酒好きで――…加えて、途方もなく強い。
　1パインドのビール如きでは、彼らの理性をぐらつかせることすら叶わない。

　差し出されたビールを一気に飲み干そうが顔色一つ変わらぬオーエン。
　その足下でグデングデンに酔いつぶれているグレン。
　わたくしは彼らのどちらに驚くべきなのだろう？　3秒ほど悩んで考えるのを止めた。

「それで、姐さん？　今日の旅程はどうなるんです」

「ああ、そうね。すっかり忘れてたわ！」

　先ほどの約束など何のその。
　再びジョッキにビールを湧き出させはじめた飲んだくれを尻目に、
　差し迫った現実の処理を行わねばならない。

「この間、ミスター・ワイアやミス・ルナールと一緒に大草原へ行ったでしょう？」

「ええ、行きましたね」

「今日はわたくしがみんなを大草原まで案内するのよ！」

「はあ、姐さんが案内を――…ちょっと待て。姐さんが彼らの道案内をするんですか？」

　眼前の大男の顔色はみるみる悪くなっていく。
　言いたいことはだいたい判る。
　ヴォルフスムーンの社交界に、レディ・ロルを“地理に聡い”と称する者は誰も居ない。
　居たとすれば、彼（もしくは彼女）はわたくしと話をしたことすら無いだろう。

「貴方は覚えてるわよね」

　そういった事実をふまえても、すこし背伸びをしたいことだってあるのだ。

――馬車が揺れる度に、真ん中にでーんと居座っている新しい乗客がガタガタ音を立てる。
昨日、カーライルが水辺から掘り出して来た銀の箱だ。

珍しく真面目な表情で宝箱の表面を触ったり、軽くコツコツ叩いたりしている。

金属製の箱をししょーと囲みながら、エミリーは何やら嬉しそうに小躍りしている。

ハヅキと別れて以降、全く行き先のことをよく理解していなかったようでシドニーと御者台に座るアーロンに問い掛ける。

先ほどまで宝箱に夢中だった冒険者師弟。
彼らの注意が“次の行き先”に向くや否や、老貴婦人はにっこり微笑み疑問に応じる。

ダークブロンドの狼は困ったように首を左右に振る。
“言いたいこと”を振り切るかのように、運び屋の馬たちを先導すべく走り出した！

　方向感覚があまりよろしくない老貴婦人にもわかり易いように、
　見晴らしの良い大草原に突き出すように、御者たる運び屋は腕をすっと伸ばす姿は
　少女の姿をした社長夫人にも見て取れるだろう。

　妖精の作った抜け穴が時間や空間を超えるなんて伝承もあるだろ？
　と軽くウィンクをしてみせる

ドライアドの姿が既にオオカミと化しているのを見て、ああ、と顔を両手で覆い、その場に崩れ落ちた。

弟子の手榴弾の威力が日々パワーアップしていることを知ってか言葉の端には真剣さが伺える。

婦人の発言がツボに入ったのか愉快そうに笑う。

　　　　　　　　　　　　　　　　†

フライパン上の青い宝石にしばし絶句している。

まあ、ししょーの担当してる感じのとは少し違うんだけどもね。と付け加えつつも、エミリーなりに自信のある仕事らしい。

ちなみに外見からは全く区別がつかない。エミリーはどうやって見極めているんだろうか。

女の敵には手榴弾の鉄槌を。至極真っ当な制裁だと彼女は主張している。

そう言うと威嚇の意味を込めてか、ピシリと鋭い音を立てて地面を撃つ。

馬の姿を認めるや、老貴婦人は童女のように喜んでいる。
メルンテーゼに訪れ、人狼を引き連れた己を怖がらない馬の存在を知るや、

今ではすっかりお気に入りらしい。

後ろに見える女性らしいシルエットにすぅっと鋭く目を細めて…

御者台から飛び降りれば、自らの愛馬たちを正面から抱きしめた！

猟銃を構えると、引き金にそっと指先をかける。