――今から俺がすることは、ただの自分自身を満足させるだけの行為だ。
――けど……これで、お前が生きていれば、俺という人間が生きていたという証を残すことが出来る。
――ああ、俺にはこれしかないんだ。これが、俺の全てだ。

――だから……すまない。


＊＊＊＊＊＊＊

「ツグミ。腕はまだ痛むか」
「……………………………うん……すこし……」
百日紅から貰った痛み止めを服用し、少しでもましになるようにと触覚を最小限までに抑えていてもまだ痛むのだという。
苦々しい気持ちを感じながらも、ユーグはこうしてツグミを連れ歩かねばならなかった。彼が行軍に参加しないという選択肢は初めから用意されていない。
痛む腕とは反対の手を繋いでいるが、ツグミはいつもより随分と落ち着きがなかった。勿論一言も発することはなく、さらに表情が特別変わっている訳でもなかったが、その視線は足元の悪い森の中を行くにも関わらず辺りを彷徨うばかりだ。
その様子を忙しなく見ているのが手を引くユーグで、同行者として森を行くカレンとセロは数歩先を歩いていた。ユーグたちが行軍の最後尾を行くのは別段変わったことではなかった。彼らは、戦闘に応用できる能力こそあれ、特別な環境で生きてきたわけではなかった。その分どうしても、カレンやセロといった手練れには遅れをとる。ユーグだけならばともかく、一人では歩くこともままならない時があるツグミがいればなおさらだった。
「…………………あ………………」
ツグミが小さく声を上げたと同時に、森に敷き詰めてある枯葉を踏みしめる音がする。人類が考え付く法則などをまるで無視した形で自生する大木に足を取られ、前のめりに倒れ込む――勿論ツグミは、受け身どころか腕ひとつ出すことはなかった。
その細い体を伸ばした両手で抱き留めると、ユーグは小さく嘆息した。こうなることがある程度予測出来ていたようでもあった。
「ツグミ。大丈夫か」
「…………………………うん…………」
当人たちが思っていた以上に大きな音がしたらしく、カレンが数歩跳ねるように戻って来た。セロは一瞥をすると、周りの警戒に戻る。
「転んだのですか？　大丈夫です？」
「いや、転ぶには至らなかったよ。足を取られたらしい」
「奥に行くほど険しくなっているようですからね……まだ行けますか？」
ユーグはしばし逡巡すると、ひとつの提案を出した。
「すまないけれど、少し時間を貰えるかい。足でも捻っていたら事だからね」
カレンもセロも、それに対して特に異論を唱えることはしなかった。もとより森に至っては目的は特になく探索を一通り終えれば帰還するつもりだったのだ。ツグミが異常に森に感心を見せたのを見かねて百日紅が進言したのだが、カレンとセロを巻き込む形になったことは少し心苦しいとユーグは思った。
何より、ユーグ自身が森の探索に乗り気ではない。

痛くなったら言いなさい、と言い含めておき、ユーグは細い足首を回して確認したが、幸いなことに捻挫をしている気配はなかった。
大丈夫そうだ、とカレンに伝えると、少し安堵した様子だった。
ツグミを暫く座らせておき、ユーグはセロと言葉を交わすべくその場を少し離れた。ツグミの横にはカレンが立っており、猟犬としての勘を目いっぱいに働かせて辺りの様子を探っている。確かにこの場を襲われては体勢が立てづらい。
「セロ。いいかい」
セロは目線だけで無言の了承をした。
「ツグミは……君が見た時もああだったのか」
「ああ、っていうのは」
言葉の真意を組みかねて、セロは聞き返した。常人には変化すら分からないのかとユーグは驚くと同時に、やはり自分が居なくてはこうなのだ、と思わざるを得なかった。常についてやらなければ、あれの繊細な感情の機微を見逃してしまう。
「今日のツグミは落ち着きが全くない。はっきり言って異常だよ、あれは」
「……そういうものなのかな」
「ああ……視線が落ち着いていない。酷く浮足立っている。私には、その原因が分からないのだよ」
押し殺したような声に顔を上げると、他人の感情におおよそ興味のないセロですら、ユーグの顔はひどく追い詰められているように見えた。
口元には薄ら笑いを浮かべ、どこか野性味を帯びた眼光が光っていた。
ユーグが能力を使うとその瞳は水色に染まるのだという話をセロは誰から聞いたか頭の片隅に記憶していたが、その瞳は炯々と水色に光っていた。塗料を撒いたかのように均一な色をしている。
その様子を見てセロが目を細めるのと同時に、背後で木の軋む音がした。振り返れば、大木の洞が粉みじんに破壊されていた。それでも大木が倒れる気配はなかったが、密集して生えている大木の、洞という洞はものの数分で全て破壊しつくされてしまった。
滑らかであったはずの洞の表面は、爆発でも起こしたかのように表皮が削げ落ち、ささくれていた。生木の青臭い匂いが敏感なセロの鼻を刺激する。
「……抑えきれないんだ」
絞り出すような声でユーグが呟いた。彼は背後の惨状を見ることはなかった。見なくても知っているかのようだった。

「大丈夫だ。……君たちの体を吹っ飛ばすような真似はしない」


＊＊＊＊＊＊＊


猟犬の血に従って、カレンもまたその鼻と耳の良さは屋敷内でも指折りのものだった。
少し離れたところでユーグがその能力を使って、手あたり次第に大木を痛めつけていることを察知すると、さてますます動けなくなった、と内心嘆息する。
傍らに座り込むツグミを見れば、相変わらず視線を彷徨わせるばかりだ。
行軍の支障には今のところ――何とかぎりぎりの範囲でなっていないと思うが、彼を連れ回すユーグの神経が、カレンにはいささか理解しかねるものだった。
「腕が痛むのでしょう。ならば屋敷に居た方が良かったのでは……」
そう言ってから、ツグミには返答する意思がないことに気付く。ままならないもので、カレンは膝を折ると痛むというツグミの腕――正確には肩を観察した。ワイシャツ越しでは何も分からなかったけれど（曰く、外傷はないらしいが）微かに違和感を感じる。
ツグミの腕に感じる微かな気配――
「エンブリオが宿っているのでは……」
行軍のたびに遭遇するエンブリオ、それらが持つ気配と同じものをツグミの肩から感じ取り、カレンは小さく呟いた。
そのエンブリオとツグミの体とが反発し合うことで、痛みを引き起こしているのではないだろうか。辻褄は合う。
生憎とカレンは痛むという肩に鳥籠の刺青が彫られていることを知らなかったが、そこから発せられているエンブリオの気配を読み取ることは造作もなかった。
ユーグに進言するべきか迷ったが、彼がひどくエンブリオを嫌悪をしていることを思い出し、やめた。
特に今の彼に言おうものなら、本格的に手がつけられなくなる可能性もある。
お嬢様に害をなすようならば、容赦はしませんが――と、カレンは内心穏やかではない。
「…………………………………」
ツグミの視線は相変わらず定まらない。カレンがそれに気づき、その視線の先を追う。
鬱蒼と茂る森の中を飛び回る鳥たち、それらを追うようにツグミの視線は動いていた。鳥を追って森へ来たのだろうか、とカレンは逡巡した。
一際大きい鳥の羽ばたきが聞こえると、ツグミは吸い寄せられるようにそちらを見る。
鳥に惹かれている――カレンにはそう見えた。

しばらくそうしていただろうか、ツグミは急に上空を見ることを止め、項垂れるように地面に視線を落とした。その動作はゆるやかだったが、その動作には音が伴わなかったため、カレンはそれに気づくのに少し遅れてしまう。
「………………………………いない……」
カレンは、ツグミが言葉を発したことに少しの驚きを見せた。いつもならば、ユーグの問いかけに対しての返答ばかりだというのに、独り言のようなものが彼の口から出るとは思っていなかったからだ。
「ツグミ？」
「………………………いない……………………ここじゃない…………」

否定の言葉を連ねた後に、小さく呼ばれた名前はカレンの知る人物ではなかった。


＊＊＊＊＊＊＊

（誰なのでしょう……なんだか酷く、厄介な問題に巻き込まれてしまったような気がします）
行軍を再開した後に、カレンは先頭でむうと唸っていた。
ツグミが発した名前を聞いたのは彼女だけで、勿論ユーグに聞くこともできず、かといって湧き出た好奇心めいたものは色々な想像を掻きたてる。
（はっ、もしや三角関係……いえ、ユーグはその気はないと言っていましたが……！）
尻尾を一度大きく振って、その思考を打ち消した。
（そもそも、あれは男性の名前なのでしょうか。それとも女性？）
恐らく、その名前の人物を探してふらふらと辺りを彷徨っているのであろうとカレンは想像する。
それを鳥やエンブリオに追い求めているというのは一体どういうことなのか、分からないことは多かったけれども。
（でも……なんだか）


会いたいのか、会いたくないのか……分からない様子だった。