『庭師』を無事に打ち破り、再び各々の求めるエンブリオを探して班を分けることになった。
　入れ替えや遠征にも早々に慣れてきたように思う。たった二週間、まだ二週間。その間に、どれほどの変化があったろうか。
　激変はしていない筈だ、と思う。
　ただ、エンブリオとの契約で、自分の中にあらゆる対価が存在すると、知った。
　仲間と呼ばれる、立場も年齢も違う人達と、少しずつ距離を近づけていくことを、知った。
　自分が何者でありたいか。いかに生きるか。その答えに近づきたいという願いを、知った。

『てっきり、呪われてると思っていた』

　小さいがはっきり耳に届く声に頭上を振り仰ぐと、デビルと呼ばれるエンブリオが、宙を漂っていた。
　久しぶりに見た、というだけでなく、何処か何かが違っているように思う。

『美味しくなかったのは、呪いも呪われもしていなかったからだって。ユニコーンが言ってた』

　くるりと宙で回転し、手を広げてみせる。お手上げ、といわんばかりに。

『ちょっとずつは食べるわよ。その為に契約したんだもの』
「あまり歓迎は出来ませんね」
『でも、もう遅い』
「そうでしたね」
『食べられる毒なら、食べちゃってもいいじゃない』

　目を閉じ、開く。
　食事に拘ってしまうのは、自分の所為だろうか。それとも、類が友を呼んだのか。
　必要な下ごしらえをあらかた片付け、それらに蓋するように元素の布を被せてから、足元で丸くなっていた白虎を手招く。

「『何が起きるかわからない』のは、怖いことです」
『スレイプニルとユニコーンのお墨付きよ』
「……エンブリオは寛大だと思います」
『基準が違うのよ。……あら、その子もおなかすいてたの』

　目を輝かせて食事をする白虎に、くるりと回転してみせる。
　この白虎は特に、個としての主張が強い。ゆえに、契約とはまた別に、こうした食事を喜ぶ傾向がある。
　一方で、契約に関係なく、守護たらんと気を張るような面もあるのだが。

「最近、思うのですが。『何が起きるかわからない』以上に、『何をするかわからない』のは、怖いですね」
『なにそれ』
「……人に怯える前に、己を省みただけですよ」

　先日の小さな、笑い話になるような出来事を、思い出していた。
　いよいよお目当ての狼とあって、庭師相手以上の闘志を燃やしていた女性に、今まで見なかった一面を見た。
　自分にもまだ知られていない面はあるだろうし、そろそろ慣れようかとも思っていた。
　そうして、ふと、気付いたことがあるのだ。

　――聖職者で、死体を操り、よく似た名前を持っている。

　ただそれだけの事が、小さな切り傷のように、ちりちりと。
　焦燥なのか。怒りなのか。苛立ちなのか。よくわからない。
　それも、こうして今のように、しなければならないことを考えれば、理性に押されて消えていく。
　だが、折に触れ、我慢ならないと感じている自分に気がつく。気がついてしまう。

　――あの庭師のように、いつまでもあそこに居る。
　――自分の手で、どうにかしない限り、いつまでも。

　それは、理不尽だ。
　その『感情』は、もしくは『思考』は、理不尽だ。
　研究のためにもならない。そして、撃ち果たしたところで、何が大きく変わることもない。

　ただ、ほんの少し気が済むだけなのだ。

『ほめてあげなさいよ』

　頭上からの声に、ふと思索から戻ると、皿を綺麗に空にした白虎が、期待に満ちた目でこちらを見上げていた。

「……ああ、そうですね。今日も、お疲れ様でした」

　言って軽く撫でてやると、いかにも自慢そうに、心地良さそうに喉を鳴らす。
　果たして本当にこれは野生の生き物なのか、いささか疑問を覚えなくもない。
　だが、この雄弁な『ごちそうさま』の表情は、嬉しい、ものだ。引っかき傷の苛立ちを補ってあまりあるほどに。

　このエンブリオに限らない。ごちそうさま。ありがとう。そう言われること。あるいは言うことが、なければ。
　自分はとうに聖職者をめがけて突撃し――出会うより以前に、脱落していただろう。そう、確信出来る。
　だから、苛立ちは未だに、苛立ち以上のものにはなっていない。


　そも、人間という生き物自体が、『何をするかわからない』ものだ。
　恐ろしいのは、自分がどんな生き物かわからないことではない。
　『何をするかわからない』ほどの出来事が起きたとき。自分は、どのような振る舞いに出るのか。

　仮に、取り返しのつかないことになった時に。『そういう生き物だから、仕方がない』ということになってしまったら。
　それは、別な生き物である以上に、つらいことのような気がする。

『そんなに怖ければ、あのぴかぴかーで直してもらえば？』
「……根に持ちますね」
『ふんだ』

　すっかり語り草になった、件の『ぴかぴか』を操る少年の方を見やる。
　今日はまだ眠ってはいない。何か書き物をしているのか、時々楽しそうに空中を見上げながら、ペンを走らせている。

「そんなことには、しませんよ」

　そもそも、自分程度が少々暴走したところで、どうにかなる面子とも思わない。
　だが、それ以上に。いくら自分でも、『人を悲しませない』ことくらいは忘れないでありたい。

「あなたがたも見ていますからね」

　私達は、いつでも、ここにいる。
　実感として、自分もまた、それを感じている。この悪魔や白虎のように、すがたを見せないものたちとも。
　天を見上げれば、メルンテーゼの空が広がっている。誰もが個性であり、誰も特別でない空。

　寝息を立てる白虎を撫でると、すこしだけひやりとした、生き物のぬくもりがあった。