そこは白の続く空間だった。

眼前には世界を隔てるものは何一つとしてなく空と地平の境だけが視認でき、耳が痛くなるほどの無音であった。
何故ここにきたのか、ついいまさっき何をしていたのかさえ思い出せないが
ただ無意識のもと足を進める。

自分は誰であったろうか、一体どこへ行くのだろうか
此処はどこにも繋がらないだろう確信の持てる不思議な空虚さに目眩を覚え
踏み出した先は水面のように波打つ。


ふと
視界に何かが飛び込んできた。

人？　　ああ人だ。　そしてその先には祭壇と思しき小さな石敷き
そこだけ色が灯ったような　違和の中の自然だった。

一歩進むごとに慣れたはずの浮ついた歩に足をとられ、近いはずの場所がやたらと遠く感じられる
やっとたどり着き一息をついて周囲を見渡し
更にもう一呼吸たっぷりと間を置くと先客へと視線をやった。

問いかける言葉にまず迷った。なんとまずなんと訊ねるべきであろうか。
ここはどこですか？
あなたは誰ですか？
どの問いもしっくりとはこない。　　あ、と大きく開けた口の中で言霊が惑う。


確かこう聞いた。
「あなたはいつからいるのですか」　と。


彼女は、漆黒の　ぼろぼろの外套を羽織りフードを目深に被った女性だった。
真っ暗で真っ黒な彼女の顔は伺い知れなかったが、襟足に掛かる桃色の髪が
こちらに軽く体を捻るそのしぐさにはらりと覗いた事が印象的で。

「覚えてないの」

落ち着いたソプラノボイス
彼女も恐らくずっとぼんやりと佇んでいたのだろう、心ここにあらずといった様子で呟いた。
そうか、と一言返す後にゆっくり進行方向へと向き直る。



『ようこそ、我が庭へ』

声は天よりふってきた。


『ここは狭間、世界と世界の綻びの縫い目、そして繋ぐ事を求め求め続ける場。
　君達は選ばれた「願った者」である。機は今熟した。』


『君達に役割を与えよう。役割を全うした時ひとつだけ願いをかなえる事が出来る。
　それは小さな願いに限るが君達が必要としているものを今与える事が出来る。
　しかしそれは時として苦しいものだ。役割をこなす過程も、その先の未来もだ。
　それでも良いならこの手を取るといい。
　択んでくれ、己が未来を。』




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慣れ親しんだ仲間と別れてどれだけの時間が経ったろうか。
水辺の探索は思いのほか難航し、予定よりも何週間も長く滞在する事となった。

別働隊として編成された仲間たちはやはり自分を久しいものだと言う。思い出せない。　
真っ白く靄がかってしまった脳裏には思い出が欠片すらも浮かんではこなかった。

あれ以来もやもやと晴れきらない心のせいか鍛錬の時間が長くなった。
やはり感覚の戻らない両手を摩りながら樹木に巻きつけた布にこぶしをあて我にかえる。
隣には寿雷也、元は男だったのだという「彼女」の姿があった。

記憶は思い出せないながらも、彼ら彼女らの話を聞くうちに分かる事はいくらでもあった。
自分も頭が回らないわけではない。薄々と、言葉で聞かないながらも察していく関係性がある。

今になって　　　　本当に今になってであるが
去り際の毒気を吐き落とすような言葉を、後悔の塊を彼にぶつけてしまった事に自責の念を抱いていた。
何より沈黙を貫いた最後に彼が呟いた事が未だに頭に残っているのだ。
第三者からの他愛ない野次であるはずの言葉が。

彼は雇いの傭兵だ。　立ち位置はオースのそれと全く変わりがない。
しかし彼は人一倍己に世話を焼いた。　寡黙ながらも傍にあった。
時には己の生き急ぐ様を叱責し、傍若無人の振る舞いを受け止め、隣から動こうとはしなかった。
一介の傭兵が。会って間もない男が　である。一体何故なのだろうかと思わなかったわけがない。


温もりは徐々に浸み込み離れる事叶わなくなる毒のようなもので。
人には頼るまいと心に決めて修練を積んだ人間が情けないと心中は無論穏やかではなかった。
徐々に、そして確実に　彼の存在を揺るがぬものとして己の中に抱え込む。

今まで出来ていた事が出来なくなった。
１０年の間できていたことが１０年ぶりにである。
それが一体何故なのか、答えはもう出掛かっていた。

その彼が最後に呟いた言葉は、希望を感じさせもした。
戻ってもいいのかもしれない。我侭を　あの時いえなかった事を打ち明けても良いのかもしれない。
そんなものは知らないと言われれば、それで良い。　人違いだ、迷惑だといわれるならばそれでも。


様々な土地を旅した。人と触れ合い世界の広さと壮大さを知り、その分だけ己の知らない汚い部分を垣間見もした。
弟子も育てた。あの子は元気にやっているだろうか、なんていつ別れたとも知れない彼をふと想う。
まだやりたい事は山とある、見たい景色も、味わいたいものもだ。


この異世界の旅が終わったら安穏に生きてみたい。
やりたいと思った事をもう一度、気兼ねなく、背伸びをせずにしてみたい。
その我侭を一言だけでもねだるのは悪い事ではないのでは　と彼は感じさせたのだ。



ふと　いつか誰かの言葉が脳裏をよぎっていった。


『人の手を借りるも借りぬも君の自由だ。
　けれど君は君の世界に戻らねばならない事を忘れてはならない。』

『この世界での事に、出会う人に深入りしてはいけない。君の深い所を許してはならない。
　君から受け取ったこの願いが、全て終わった時にかなえられるとする限り
　いずれ何らかの形で別れは来るから。』


でも彼ならば、帰る世界を同じくするならば。

そんな時だった
…周辺の空気が俄かに変わる。

どこからともなく現れ収束する人の気配
それが導かれたかのようにエンブリオの一つへと宿っていった。

そうして突如現れた彼女は零れんばかりの笑顔を見せたのだ。

と、あんまり深刻でなさそうな調子で腕の包帯を解いて、触手のような腕を動かしてみせた。

眼前に立ちはだかる人影を今にも貫きそうな視線でじっと見つめる。

背中に斬一文字を背負った白の一張羅の左肩を掴み、背後へと投げ捨てる。

やや厚手の重みを持った生地が、地面に付いたか付かぬかの処で
身の丈六尺二寸の男の背中から、腕の可動とともに、
　大鉈「濠白波」　が大きく弧を描き姿を現したかと思うと…

刃こぼれなど全く気にしない激しい衝撃が、地表の石を蹴散らした。