彼は眼前で見開かれたそれが鳴くのを聞いた。
入口側。石壁の崩れた奥の暗闇に散りばめられた様に現れた眼球は、揺れるそれの傍まで寄せられる。
揺れる身体の前に、他の場所よりゆっくりと脈動する部分があった。恐らくそれが宙に浮くものを飲み込んだのだろう。
囁き声の様に暗闇から洩れる声は彼には、何を言っているのか理解できない。
言葉なのか。ただの意味をなさない声なのか。そもそも声と呼んでもいいものなのか。
彼は己がどの様な状況なのかは察する事が出来ても、目の前のそれに対して全く把握する事が出来なかった。

うぞうぞ動いていたあの部分が開く。白い、粘着質な周りの部分とは違いやけに白い物が見えた。あぁ、あれは歯なのだろう。だが歯にしては並びにむらがあって隙間ばかりだ。
厭に細長く映えて見える。
今度は一気に飲み込まれた。
宙のそれの砕かれ、繊維を断つ音と、歯の隙間を通る息が擦れ聞こえてくる高い音が耳につく。

彼はいつの間にか後ろへ後ずさっていたのに気付く。
鈍い前脚は動かす事が出来ない。彼は自分がそれから視線を外さぬ様にしながら姿勢を低くし、後脚と胴だけで身体を支えながら後退していたらしい。
身体を引きずり、尻尾は既に硬くなり後ろ足の付け根にぴったりと触れている。筋肉は恐怖でｶﾞﾀｶﾞﾀと震え彼は絶望の一片に心が触れているのをやや客観的に感じる事が出来た。
既に彼の頭には恐怖と絶望以外消え去っていた。
しかし今彼はそれを見ながらも足掻く。彼を動かしているのはなけなし程度の、硝子の欠片程の彼なりのプライドだった。


(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――――！)


自分が狩った命達が己へと向けたこの感情は何というものだろう。
一概にそれが決められてるモノでは無いと分かっていても、彼は己の事を考えてしまう。
彼は狩る立場にあり、時に狩られる同朋を幾度目にしてきた。

（糞が―――っ）

エンブリオとなり、かの輩共と去っていく同朋。
時にその者達は手合せを挑みそして在り様を示していくのだ。


それから響く音が止まる。
ぎらぎらと輝く目が一斉にこちらへと向いた。それは彼の様子を見る。散りばめられた瞼の無い眼球はどれも差異が無い。
だが彼は黒に覆われた視界の中それを捉えた。不偏だと思えた闇の塊の中に。ﾌﾟﾂﾘと表面を破裂させ小さな眼が現れた事を。
以前の戦闘で見かけた誰かの目の様に見えた。無残に潰されながらも見開かれた眼は何処へと視線を向けているのか分からなかった。



旧態依然の空間が破られた。
後頭部に衝撃。思った時には地面へと横倒しになっていた。

「ふ、ふひ……、っひひ、ひひひひ―――！」

殴り飛ばされたと分かった真っ白になりかけた思考に、派手な音が響いた時だった。
後退した時に見えた建物の瓦礫が目の前に転がっている。

「コ、コレで、大きく……。モット喰って大きくナッテ……ひひひ、おで、とイッショ、ふひひひひ！！」

ばたばたとした振動と音が痛む身体へと地面から伝わるってくる。
ガハッと彼は空気の塊の吐き出す。続けて吸う息はやけに生臭い。
もう一匹のゴブリンか。彼は倒れたまま、重い瞼を持ち上げた。

「愛シイ仔、愛シイ仔！また、マダ、マンマあげるよぉぉぉぉｫォｫｯ！！」

顔は歪み目は血走りながらもその顔は喜悦に歪む。
狂気、誰もが見たらそう思うだろう。大きく口を開き、黄ばんだ歯を剥きながら浮かべる笑みは
真っ直ぐにそれへと注がれていた。
それに応える感情があるとも考えずに。何もかも映さない小鬼は只々己の感情と空虚となって返される狂喜を撒き散らした。

「直ぐ、直ぐ、モット、モット、用意スルからねぇｯ！」

更なる打撃が彼に打ち込まれた。

「グッ！！」

胴へと重い一撃が横薙ぎで打ちこまれる。
両指を絡ませ、一回り大きな拳が彼の身体を打ち付ける。鼻歌交じりの撃音が瓦礫の中に木霊した。
疲労が溜まった彼の身体は回避する事も出来ず、攻撃を受けるしかない。
拳が下がる度に彼の身体から鈍い音が響き、身体から力が抜けていく。
何度目かの打撃の後、ゴブリンが両手を更に頭上に振り挙げる。彼はそれを視界の端に収め、

「コこここれでででｯおわ、終わり」

―――ガンｯ！！

今まで以上の勢いで振り下ろされた。


「ふひひ、柔らか、ヤット、なったよぉ」


拳をとき、ゴブリンはぐったりと動かなくなった彼に近づく。
彼を持ち上げるには体格的に難しいのだろう。強靭な肉体を持つ重い彼を移動させるだけでかなりの体力が使うのだろう。
背後に回ったゴブリンは、彼の両前脚を触れようとはせずに後脚へと手を伸ばしていく。
だが、これは失策だった。
ゴブリンは彼が力尽き、気絶した事をしっかりと確認した。だがゴブリンは彼が何者か思い出す事をしなかったのだ。
それを思い出せばこれから起きるであろう可能性の対処法を検討できる狩人なら、そのゴブリンの行動をどう思うのだろうか。

高が気絶させただけに過ぎないそれに手を伸ばすとは何と無謀な事か！

あんなものでは、狼を縛るグレイプニルの鎖たりえない。
あんなものでは、狩人の牙を反らすことは叶わない。

正気を逸したゴブリンには恐怖と狂喜以外に目が行かなくなってしまったのだ。
とある世界には窮鼠猫を噛むと言う言葉がある。破れかぶれに陥った末の行動は、時に初手の有利不利を覆すだけの力を持つ。
暗闇に銀の月弧が翻る。

「ギヒャアアアアァアアアァァァアア――ッッ！！！！？？」

あまりにも呆気なく。ゴブリンの右腕を噛み砕いた。
口の中にドロリとしたものが舌に触れる。突立てた牙の先から溢れ返ってくる感覚に彼は眉間の皺を更に深めた。

（薄汚い血の臭いが鼻につく）

驚愕と痛み上がる悲鳴。
我武者羅に彼に向けて拳を打ち付けるのに対し、彼の牙は獲物を食らい続ける。
痛みなど当に限界を超えている。意識など、油断していたら直ぐに掻き消えてしまいそうだ。
だが彼の耳に捉えるものがある。
悲鳴だ。
恐れ、もがき苦しみ、恐怖に震えている。
これこそ彼等が本能を満たす糧。苦痛に歪むこの表情。
コレは俺を恐れてる。
更に噛み締めた顎に力を込めるとそれに合わせて面白い様にゴブリンの声が大きくなる。
彼は獲物に向けて小さく鼻で笑った。

(こいつは“獲物”だ）

狼には時に様々な技を持つ。牙や爪始めとして、如何に相手を屈服させるかだ。
それを己のステイタスとし、食われる誇りを相手に知らしめる。
如何に相手の心を奪い、適わないと無意識の内に思い知らせ、動きを止めるのか。それが図られる。
己の技量のみで存在の格差を思い知らせ食らいつくあの瞬間、獲物がこちらに首を差し出す時の高揚感は思い出すだけでも身震いがしそうだ。
つ、と彼はゴブリンに目を合わす。正気を失いながらも、こちらの視線があった途端、ビクリｯと大仰に身体を震わせた。
それを見た彼は思わず舌なめずりをしたいと思った。口が塞がってしまっている時点で、それは叶わないが。
だがそれに応える様に。
食らい付いた牙で引き絞る様に顔を反対側へと振り切る。その結果ゴブリンの腕の肉がごっそりと引き千切られた。
最早言葉とは言えない悲鳴がゴブリンの口から発せられる。
既に力を無くしたのか、再び地面へと伏した彼だが血と肉を頬張り口の周りを血で染めて、目の前で同じく地面でもがいている相手を見やる。
ひいひいと情けない声を上げながら、肉を削げ落とされた腕を庇うゴブリンに彼はゆっくりと言い放った。


「おいテメェ……まだ腕の肉だけだろう。テメェが俺を叩きのめしたのはこんなモンじゃねェだろうがよぉ、あぁ？」

動かない前脚がもどかしい。だが腹をつけ伏せた状態に身体を持ち上げる事は出来た。
後脚を若干立てる事で、爪が地面に食い込む。後は後脚と全体の筋肉の膂力によって一時的であるが相手の喉元に食らい付く瞬発力が生まれる。
さぁこれで、獲物に牙を突立て。

「この身の全て、報い果たすが殺しの牙だ。俺の前では狂うなよ？餌の自覚を持って死ね」


だが最後の餌がこんな小物か。
彼は心の中でそう呟きながら目の前の獲物に牙をぶち込んだ。

>卍人さん

＞ご主人

＞カーフェイさん

ひとつ、ため息。

卍人＞

わかりやすくどころかド直球だよ

なんだかものすごいオーラを放っているガルとカーフェイのやり取り。

ちろちろ炎が零れてるトカゲを見て。
たぶん、コインに向かって出すのだろうか。それだけなら問題はない。

しみじみと頷く。

二人の視線がガルに注がれる。

*何かを発見して嬉しそうだ*