「けんかうってんのかー！」

「けっとうだー！」

　さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。

　悠久の楽園に集う乙女たちが、今日も天使のような笑顔で、油断ならないイクサに興じている。

　汚れを知らない心身を包むのは、個性溢れる私服。

　喧嘩の妙味は乱さぬように、白い見せパンは出し過ぎないように、真っ向から打ち合うのがここでのたしなみ

　もちろん、土壇場で怖気づいて走り去るなどといった、なさけない住民など存在していようはずもない。


　楽園世界アイオネラ。

　分割世界黎明期から続くこの世界は、もとは宗教的救済のためにつくられたと噂される、

　伝統ある欲望開放系ユートピア世界である。


　桃源洞裡。大自然の面影を未だに残している緑の多いこの世界で、

　神に見守られ、揺り篭から墓場までの生存保障が受けられる理想の地。

　時代は移り変わり、年号や暦のシステムがようやく導入された今日でさえ

　十代半ばにもなると山林育ちの狩猟採取少女どもが退屈感から馬鹿騒ぎを始める

　という風習が未だ残っている微笑ましい世界である。

　彼女――、モルト・スフォルツァートもそんな平凡な住民の一人だった。




「お待ちなさい」
　とある月曜日。
　果物の山の麓にある二股の分かれ道で、モルトは背後から呼び止められた。
　作者不明のオブジェの前であったから、一瞬オブジェに呼び止められたのかと思った。
　そんな錯覚を覚えるほど、気配なき、見事な穏形術だった。
　声をかけられたらまず立ち止まり、そうして「はい」と生返事で意識を逸らしつつ、努めて素早く振り返る。
　不意のことでも、あわてて隙を見せてはいけない。無警戒に首だけで 振り向く なんで行為、淑女としては失格。
　あくまで優雅に、そして美しく。少しでも、不意打ちの危険を減らせるように。
　だから振り返って相手の顔を真っ直ぐとらえてから、まずは何をおいても真意をさぐるのだ――。
　しかし残念ながら、モルトの口から「何か御用？」は発せられることはなかった。
　その声の主を認識したとたん気絶してしまったから。
　即座に飛び退かなかったのは、アイオネラの住人としてつまらない不覚を取らないように日頃から心がけていた成果
　……というわけでは決してない。
　不意打ちの精度が段違いで、行動が迫いつかないままワンパンＫＯされてしまっただけなのだ。


「あの……。僕になんか用だろうか」
　どうにか自力で半覚醒し、モルトは前後不覚のまま尋ねてみた。
　もちろん、彼女の視線の先に自分がいることと、周辺に人がいないことは音紋で確認済み。
　隙を見つけて、殴らずにはいられない。
「呼び止めたのは私で、その相手はあなた。間違いなくってよ」
　間違いない、と言われても。いいえお間違いのようですよ、と答えて反撃に転じたい心境だった。
　突然声を掛けられた時点で勝負開始済とはいえ、思考回路はショート寸前だ。
　そんなことなど知る由もないその人は、うっすらと微笑を浮かべ、大の字ダウンのモルトに向かって近づいてきた。
　恐らく住処が違うのか、記憶をまさぐっても該当する顔はない。　声を間いたのも、今回が初めてだった。
　腰まで伸ばしたストレートヘアは、手入れの方法を教えて欲しいほどつやつやで。
　この長さをキープしていながら、もしや枝毛の一本もないのではないかと思われた。
「動かないで」
　モルトが手にしていた楽器ケースを彼女が蹴っ飛ばす。 訳もわからず硬直すると、からになった両手をまとめて押さえられた。
（ちょっー!?）
　何が起こったのか一瞬わからず、モルトは目を閉じて固く首をすくめた。
「存在が、誘っていてよ」
「えっ？」
　目を開けると、そこには依然として美しい顔があった。


何と彼女は――

飛び起きたのは湿地の天幕。
夢を見ることは珍しくないが、創造嗜好の強いモルトの夢は脳が生み出した空想世界の可視化という形を取りやすく、
正確な反復を寝言で言えるレベルで過去の追体験を味わう事は稀だ。
加えて眠りが深い性質のため、飛び起きた事など人生通じて五指に満たないだろう。

体が熱い。R-18を軽く飛び越える夢のせいでは断じてなく、単純に寝袋が蒸し暑いだけだ。
周囲を起こさぬようにそっとテントを抜け出し、夜の風に当たる。
足元を擽る寒気は、休憩地の側を静かに流れる小川の水だ。
つかの間の快楽を与えた後は、モルトの周りを防御する振動幕に遮られ、微かな肌触りを残すのみとなってしまうが――

”ふわりと熱に浮かされながら、体の芯だけが冷えるような感覚”が理想なのだが、ただの冷たさでも思い出すには十分か。
あらゆるものが満ち足りた世界において、住人達はもっとも恐れる”退屈”を撃退する為にいくつかの習慣を生み出した。

そのうち一つが、無駄に他者と張り合うこと。そしてその果てにある合法的決闘である。
作法は二つ。　互いが合意に達している事、そして命をとらないこと。
しかし前者は有名無実。アイオネラ人たるもの、挑まれた勝負を反故にすることなど絶対にないからだ。
負けたほうが勝った方を意のままにする事も多いが、それはあくまで副産物。寧ろ勝敗すらも瑣末。
競い合うことの快感こそが、住民たちの求める報酬なのである。
証明したくば顔を見よ。事に望む誰もが、けらけらと心底おかしげな笑みを顔に貼り付けているから。

暴力でもいい　恋愛でもいい　料理に 裁縫　寝室でもいい　
傍らの誰かとの競い合いは、彼女らにとって最大級の関心事なのである！

水辺の岩に背中を預け、新しい楽器を手にする。フレームには木材を使いながら、素材の大半は石材と合金の複合。
前作のヴィオラよりも小柄ながらズシリと重く、かくばっていかついフォルムは鈍器として通用しそうだ。
繊維の弦は張らず、かわりに埋め込まれた魔石から照射される光の導線を、専用のピックで弾き、擦ることで音を発生させる。
ブレイクスルーはポケットに封印された鍵が導く不可思議な小屋。妖精の歓待と、手にした奇跡。
アイオネラにおいては研究されながらもついに体系化することはなかった、科学や魔法と呼ばれる技術が、
其処にはふんだんに盛り込まれている。

小川のせせらぎに隠れ、慣らし運転は穏やかな微かなＢ Ｇ Ｍ。　出力が十分高ければ、切り裂くような高音さえ要らない。
スピーカーだの拡張の術式だの、原理を理解したわけでは無いが、搭載することだけならば見よう見真似でなんとでもなる――

喧嘩は苦手と彼女は言う。ゆえに好まず、無闇に仕掛けないと――
　しかし、それは世界漂流の過程で身に着けた、異世界に合わせる為の知識でしかない。

反証したくば顔を見よ。事に望む前から、けらけらと心底おかしげな笑みを顔に貼り付けているから。

―メモを取っているようだ