［基本］OK.　［戦闘］OK.　

　それは、8月も中旬のある日の出来事。
　アライ海岸から数百メートルの洋上で、フィールドワークをしていた大学教授が船から転落した。


***


　ハザマでの36時間が終わろうとする頃。
　くららは斑目水緒の傍らにいた。
　先程まで泣きじゃくっていた斑目は、呆然と座り込んだまま動かない。
　勝敗を告げる声にもどこか上の空で、青い顔で前を見つめている。

　視線の先にあるのは、巨大な怪物の死骸。

　それ自体生き物のように蠢いていた鬣も尾も、今は僅かに風に揺れるだけ。
　呑み込んだ毒を吐き出そうと掻き毟った喉は自らの爪でずたずたに裂け、地面に吐き散らした血の中にひとつ、白い骨の欠片が落ちている。

　くららには知る由もないことだが。
　人を騙し、欺き、自らの口の中に誘い込んできた怪物は、死の淵にあってもよくよく心得ていた。

　目の前の人間を打ちのめし、心に消えない傷を負わせるための振る舞いを。
　そのために、今この瞬間、最も効果的な言葉は何であるかを。

　己の死を悟った怪物は弱々しく手を伸ばし、息絶える直前にただ一言、こう言った。


「……せんせい、たすけて」


　かつて存在を否定され、忘れられたことでアンジニティに落ちた怪物にとって、最も忌避すべきは人の記憶から消えること。
　忘れられないために。刻みつけるために。怪物が遺した言葉はまさしく呪いだった。

　助けを求める教え子が目の前で死んでしまったことを。
　それが自分の異能によるものであったことを。

　斑目水緒が忘れられるはずがない。

　それからくららはずっと、泣き伏せる男の隣にいた。
　言葉にならない謝罪を繰り返す姿をただ、落ち着くまで見守っていた。
　漏れ聞こえてきた、また助けられなかったという呟きに、少しだけ罪悪感を覚えた。
　多分、くららがあの学生を殺してしまわなければ、こんなことにはならなかったのだ。
　だからといって、出会わなければよかったなどとも、別に思わないのだが。


　ハザマでの36時間は、そうして終わった。


***


「気をつけてくださいよ、ほんと」
「も～落ちたって聞いて死んだと思いましたよ～」
「あ、先生この前出してたレポートの期限、延長ですよね？」

　創峰大学附属病院の入院病棟の一室。
　創峰大学第二学群海洋生物学専攻教授、斑目水緒はどやどやと学生に囲まれていた。
　見舞いと言うよりだべりに来たような若者達は、差し入れに持ってきた菓子を自分達でも食べ、ついでとばかりに課題の添削を求め、最終的に看護師に追い出された。
　嵐のような見舞客が去った後、しばらくして、一人の学生が病室を訪れた。


「どうも、先生。元気そうで何よりです」

　背の高い、海藻のような髪をした青年だった。

「これが元気そうに見える！？」

　斑目は憤慨したように、包帯を巻いた左腕を上げてみせた。
　海でのフィールドワーク中に船から転落した斑目は、幸いすぐに引き上げられ命に別状はなかったのだが。
　転落時にワイヤーが絡まった左腕の神経が断裂し、指が動かせなくなってしまった。リハビリによって回復の見込みはあるらしいが、以前のように滑らかに動くかどうかはわからない。

「まあ、思ったよりは」
「ぜんぜん元気じゃないよお。左でまだよかったけどさあ……」

　淡々と返す学生に、斑目は残っていた菓子をつまみながらふくれっ面をした。

「でも、藻噛くんもお見舞いに来てくれるとは思わなかったなあ」
「俺を何だと思ってるんですか。見舞いくらい来ますよ」

　そんなやり取りの中、ふと。
　深海の澱みのような目が斑目を見下ろした。

「……ねえ先生」

　瞬きもしない深い青に見つめられて、思わず息を呑む。

「海の中は、どうでした？」

　ぞくりと背筋が泡立つ。
　いつかどこかで、こんな風に見下されたことがあるような気がした。
　でもそれは薄暗い空の下で、海の臭いに満ちていて、もっと、もっと恐ろしくて、悲しくて――……


「……ああ、そういえば」

　　　　　　　　　　　　　　　、、、、、、、、、、
　夢で見たような光景、あるいは覚えているはずのない記憶の断片。
　それは水中の泡のように、かけられた声で簡単に散っていって、もう拾い集めることはできない。

「復帰はいつになるんですか？　それまでに講義の資料用意しておくんで。
　……聞いてます？　先生」
「え、あ、ああ、うん。えっと……今週中には退院できるって言われてるから、戻るのは再来週くらいになるかな」

　斑目が我に返った時には、目の前の相手は普段通りの仏頂面をしている。
　一瞬よぎった違和感の正体には、あの声が告げた刻限まで気付くことはない。

「その後もリハビリには通わないといけないから……藻噛くんにはまた色々お願いすることになると思う。悪いけど、よろしくね」
「わかりました。1日あたりハンバーガー3個で手を打ちます」
「ええ～～……」

　変わらない日常。変わらないやり取り。
　もうここにいないはずの人間と、喪ったことを忘れている男。


　続いてきた夢の終わりは、ゆっくりと近づいている。




*

*

*




　――それから。
　侵略騒動から4ヶ月ほどが経った、ある日の夜明け前のこと。
　アライ海岸の浜辺で誰かが、潮騒の向こうに響く嘶きを聞いたという。

　単なる気のせいだったのか、何かを聞き間違えたのか、真相は定かではない。
　これはただの、不思議な噂のはじまりに過ぎない。今はまだ。

　いつの日か。寄り集まった噂に尾ひれがついて、誰かが戯れでつけ足した物語が魚礁となって。
　この話が、畏れととも人々の口に上るようになる日が来るとしたら。
　その時こそが、怪異が形を取り戻す時。





*

*

*





　"――これは数ある妖精譚のひとつ、忘れ去られた幻想の断片。

　 海辺に佇む美しい馬に近付いてはいけないよ。
　 それに魅入られたら最後、あっという間に海中に引きずり込まれて、頭からむしゃむしゃ食われてしまうから。"

ENo.273 --- とのやりとり


ENo.1386 ボルドール とのやりとり

特に何もしませんでした。