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泰元14年3月21日






変声期前の子供の声は高い。
しかしその声も、かつてのような刺すような高さはなく、穏やかに柔らかかったから、
清は近頃は、苛立つことの方が少なくなっていた。


清は渋面を作る。
言の葉の木。無数の葉が、無数の物語を作り出すあの世界で、
自分はこの幼神を、随分と苛めてしまった。
その記憶のない子供は、何が楽しいのか、度々清に話しかけてくる。
今もまた、禰宜に与えられた執務室にまでやってきた。


清滝は、鵠に忠誠を誓い、許される限りは仕えるつもりだったが、
全て言う通りとまでは、行かなかった。



鵠に忠誠を誓うつもりはあるが、その孫は別だ。
特にこのムラクモと、姉ミナクモは、異界より渡ってきた者と、大八洲の神の子。
今はもう敵対するつもりもなかったけれど、あまり愉快な相手ではない。


話題が次々に飛ぶ。子供は苦手だ。目頭を指で揉みながら、清滝は子供の見た方を見る。





さっき、掛けたばかりの掛け軸だ。
絵を掛け軸にするキットが売っていると知人に聞いて、
やってみようと思い立ったのが先月のこと。
作品の中で一番よく描けたものを選んで軸にしたのだが、やはり、本格的なものには劣る。

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「じくに……する？きよたきが、絵をかけじくにしたの？
　かってにそんなこと、していいの？」

溜息交じりに質問に答えることにした。
無視するより、こっちの方がずっと静かに済む。


そう、同じようなものばかりだ。
煙草を吸うとき、桜を見る時、冬、イルミネーションに輝く街を見るたびに思い浮かぶもの。
それらをどうにか、形にしようとした結果に過ぎない。


何を描いたと問われても答えられないというのに、
子供はまだまだ、物事に確たる答えを出したい年ごろなのだろうか。
この世の全てに明確な答えがあって、全ての説明がつくと。
……あるいは、神の世界とはそのようなものなのか。清に、それを知る術はない。


ぎょっとして、清は幼神を見た。
この子供は、何を言わんとしているのか。


自身の胸に手を置いた。痛い程、心臓が鳴っている。
だが、去来するのは憎しみでも、怒りでもなかった。
そうだったのだ、という、奇妙な納得。諦めよりも仄温かく、受容よりも少し冷たい、ただただ静かなもの。


幼いと言えど、やはり神だ。妙に鋭いところがある。


清には、深谷の仇である妖怪を滅ぼすこともできず、異界の魔術師を追い出すこともできなかった。
師匠が死んでいくのも、ただ見送るしかなくて、
今もまだ、何一つ見つけられずにいる。世界に対して清は、あまりに無力だ。

探し物だって、こんなに探して輪郭すら朧気なのだから、もはや知り得ぬことなのだ。
それでも構わないとすら思えた。
何もかもに対して、諦めが良くなった気がしている。
全ては過ぎていくもので、清に手を加えられることはない。

──それでも、この子供が、神たる者が尋ねてくれるなら。


探しても見つからない、それは確かに焦燥をかき立てはした。
だが同時に、それは清の生きる力になった。
一人ではない、無数の誰かが、清の幸せを望んでくれているような。
コンビニ。写真店。古びたアパート。初夏が来る度に売り出されるチョコミントの菓子に、
気風の良い女将のいる居酒屋、品の良い駅前の喫茶店。
そして、春が来る度に咲く、桜の花に。

微かな微かな断片を想う度、懐かしく、遠い声が聞こえる気がした。
優しい誰かが、傷を撫でて、慰めてくれていたような。


だから、こんな言葉も、やっと言える。


清は顔を背けた。
このような稚い子供が──その本性は神だとしても──恐らく責任を感じ、真実を告げようとしたこと。
深谷の死期が、この子供によって早まったこと。神の意思のもと、深谷が死んだこと。
それらをかき消すほどに、嬉しさが胸を締め付けた。

己の生にも、美しい瞬間があった。
奪われるばかりの生に、何も見つからない道のどこかに、輝けるものがあるのだと。
それは、神が言祝ぐに足るものなのだと、今になって。


促せば、幼神はこだわりなくその場を後にする。
本当に、暇つぶしに来ただけのようだ。
神は気紛れで、子供も気紛れだ。人間が神の思惑を知る事なんて、不可能だとよくわかる。

それでも、そんな不可解な物に仕え続ける自分の事だけは、嫌いではない。
神が許してくれるから、深谷が許してくれたから、
それでやっと、優しくも、強くもなれない自分の事を、認めていける気がする。

清はまた、煙草に火を点けた。
窓を開けると、柔らかな日差しと共に、まだひんやりとした風が流れ込んでくる。
紫煙が春の空を曇らせて、薄らいで消えていくのを眺めながら、
清は、隣に誰もいない寂しさを感じていた。

深谷がいないからでも、ムラクモが出て行ったからでもない。
正体の掴めない、何かが欠落しているという確信がいつまでも付きまとっている。
もう見つかる日は来ないかもしれない。それでも探すことをやめられずにいる。
探し続けるのも良いかもしれないと、今では思う。

深谷が生きた証を求めたように、清が救いを求めたように、
誰もが、自身に必要なものを、生涯をかけて探し続ける。
全てに満足しながら生きている人間なんて、きっとどこにもいないのだ。


窓の外には、ほころびかけた桜の蕾。
出来損ないの絵の奥に、吐き出した煙の中に、幸福の影を見る。
きっと夢のように美しい、大切な日々を。

もうすぐ、春がやってくる。

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「まってー！」
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「やーだー！またないもーん！」
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「あはははー、ここまでおいでー」
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「ぶっ」
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「あ……」
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「いたーい……」
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「バカッ、おきゃくさまだ！あのね、あの、」
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「うちのものが……しつれーしました？」
//@@「いえいえ。ぶつかってごめんね。
　みんなは、ここの子？」
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「はい。せこたいしゃに、なにかごようですか」
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「う～ん、しっかりしてるな～……」
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「……んっと。ここの、退魔師って人に、お会いしたいんですけど」
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「たいまし」
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「きよたきかな？」
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「きよたきさん、こわいからやだ」
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「えー。やさしいよ？」
//@@「よびすてするから、おこるんじゃん」
「こないだ、おやつくれた」
//@@「でもおきゃくさま、きよたきのおきゃくさまだよ」
「おとりつぎしないと」
「おとりつぎって？」
//@@「とみさとさんに言うこと」
「そーだっけ？」
「わかんないけど、たぶんそう」
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「あはは……」
//@@「……おなまえを、うけたりります。それで、とみさとに言います。
　とみさとはたいましちがうけど、えらいひと」
//@@
「おなまえきくときはー？」
//@@「じこしょーかいしてから！わかってる！
　……しつれーいたしゃした。ほづのおなまえは、ほづです」
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「よろしくおねがいします。
　私の名前は……」





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「千塚。千塚沙季って言います」

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